たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

バタ『BUTTER』(12)

私も好き、「バタ」表記。最初に見たのはたぶん、「暮しの手帖」の料理特集別冊。「アボカドは畑のバタ」と書いてあったの。

「家庭科の授業で習ったグラタンを、金曜日に父に作らなかったんです」
「あなた、そんなに難しい料理作れるの? 玉ねぎも切れないと思ってたわよ」
(中略)
記憶に焼き付いている。オーブンから取り出した瞬間、ミトンでくるんだ手で得意げにグラタン皿を掲げると、クラスメイトは一斉に拍手した。きつね色に焦げ目のついたパン粉、とろけた黄色いチーズ、ところどころ具材が覗くホワイトソースには薄い膜が張っていた。
「どんなレシピ? いいわね。グラタンの美味しい季節よね。お腹空いてきたかも」
「小麦粉をまぶした玉ねぎをバターで炒め、牛乳を少しずつ注ぎます。塩茹でしたマカロニとブロッコリー、白ワインで蒸し焼きにした海老をそのソースで和えてグラタン皿に入れ、とろけるチーズとパン粉とパセリを振って、オーブンで確か、20分くらい焼きます」

マカロニ、冷凍海老、玉ねぎをプラスチックかごに放りこんでいく。乳製品売場にたどり着き、少し迷って500mlの牛乳パックを手にとり、いよいよバターを探し始める。
『現在、品薄につきバターはお一人様一個までとさせていただきます』
あの時と同じ、張り紙があった。ただし、去年の12月より、はるかに品数は増えている。雪印の有塩バターを一つ取るとレジに向かい、会計を済ませる。

「バター」の表記が「バタ」になっているのも気に入った。
「だまのないベシャメルソースを作るには、バターを惜しみなく使うことと、冷たい牛乳を一気に咥えること」
シャープペンシルで走り書きされた伶子の字だった。道標を見つけた気持ちになる。ホワイトソースのことをベシャメルソースと呼ぶらしい。家庭科で習ったように、玉ねぎに粉をまぶし、炒めるという作り方ではなかった。さらに、小麦粉をバターで炒めるというより、溶かしたバターに小麦粉を加えるようだ。設定温度にオーブンを熱し始める。
(中略)玉ねぎを洗うと、水の冷たさが骨までしみた。赤い指で皮を剥き始める。つるりとした白い肌が覗き、それをまな板に載せ包丁を入れた。家庭科で習ったそのままに、縦半分に割り、繊維に逆らって、上下に切れ目を入れていく。(中略)袋に表示された通りにマカロニを茹で、バタをたっぷりからめる。赤く色づいて、湾曲していく海老を見つめているうちに、梶井から押し付けられ、まとわりついた湿度が失せていく。
海老の殻や玉ねぎの皮を捨てる場所を探していたら、壁際の四角いポリバケツが目に付いた。(中略)
たっぷりのバターをフライパンに落とし、金色にとろけるのを待って、大さじで計量した小麦粉を加えていく。みるみる間に粉がバターを吸収し、粘度を持つ。貪欲にどこまでもバターを飲み込んでいく。冷たい牛乳を一気に咥えながら泡立て器で混ぜると、とろとろとしたクリームに変わった。どうにか完成したベシャメルソースと具を和える。
頭上の棚を開くと、ペアのグラタン皿はすぐに見つかった。(中略)ソースを盛り付け、チーズ、パン粉、パセリを振りかける。熱しておいたオーブンに、グラタン皿の載った鉄板を収めると、里佳はミトンを外しながら、キッチンを出た。うまくいきそうな予感で足取りに自然と弾みがつく。
(中略)
オーブンのドアを開けに行く。暗がりの中の青い炎と吹き付ける熱風。あの日の家庭科室での栄光が蘇った。じりじりとチーズが音を立てている。こんがりとした焼け目に、頬がほころぶ。
ひとまず見た目は及第点だと、里佳は安心してミトンをはめた手を伸ばした。
白い皿の上にグラタンを載せ、フォークと水の入ったコップとともにテーブルに運び、亮介さんと向かい合った。いただきます、とつぶやく。
フォークを手にとり、パン粉でぱりぱりした表面を突き崩す。ベシャメルソースが溶岩のように流れ出し、マカロニや海老が顔を出した。自信を得て、ひとすくい、口に運んだ。塩加減も風味も悪くない、と満足した瞬間、ざらり、とした遺物に舌が触れた。バターとチーズのまろやかな香り、ソースのなめらかさ、海老やマカロニのぷりぷりした食感を一気に台無しにする、泥の粒のような舌触り。無視しようと思ったが、絶え間なく口内を不快に刺激する。しばらく舌を動かすと、里佳は肩を落とし、フォークを置いた。
「ソース、だまになっちゃいましたね。美味しくないですよね。ごめんなさい」
(中略)
亮介さんは特に感情を表さず、もくもくとフォークを動かしている。里佳はようやく悟った。おそらく、あの日、このさっぱり美味しくないマカロニグラタンを作っていても、父は死んだのではないか。(中略)
たった1回の手料理が人の心を救うなんて、そんなものは幻想だ。その幻想にどれだけの女が苦しめられ、縛られていることだろう。自分のこの下手な料理がひとつの命を救えたなんて、自己満足と思い上がりもはななだしい。
(中略)
里佳は完全にフォークを置いた。亮介さんはもそもそとグラタンを口に運んでいる。何を出されても文句を言わずに引き受けるのが、この人なのだろう。

柚木麻子著『BUTTER』より