たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

超高級料理教室『BUTTER』(14)

家庭科の調理実習も大嫌いだった私は料理教室に興味を持ったことはないが、YouTuberに教えられたレシピは超重宝している。

この超高級料理教室では、「味の想像がつかない」料理が好まれているが、私にはあれこれ混ぜる手数の多い料理は魅力的ではない。フードチャンネルを見ていても思うこと。

「じゃあ、さっそく始めましょうか。今日のメニューは、いろいろな魚介を裏漉ししたスープ・ド・ポワソン、クミン風味の新玉ねぎと人参のパイ、ラムのオレンジ焼き、いちごのムースです」
「うわー、クミン嬉しいなあ!! 今日はいっぱい食べられそう!」
耳を出した明るい髪色のショートカットの女性が、いきなり手を打ち合わせ、ぐっとくだけたムードになった。
「アキさんはクミン大好きだもんね」
(中略)
ずらりと整列した骨が赤い肉から突き出しているラムの塊の迫力に目を見張る。ムール貝、蟹、メバル、カサゴなどの鮮魚のほの暗いぬめりや静かな色の目玉に見とれた。色の濃い野菜を盛った籠、バターや生クリームなどをマダムは次々に並べていく。生徒たちは指示されなくても、すぐに仕事を見つけていて、里佳は取り残される格好になった。それに気づいたらしい、カシミアのカーディガンに水玉のエプロンを着けた女性に、まな板と包丁を渡された。言われるままに、人参、セロリ、玉ねぎをみじん切りしていく。(中略)マダムの指示で、里佳のいびつなみじん切りをよく使い込まれた鍋に入れ、火にかける。木べらを渡され、どきどきしたまま火に向かい合う。周囲を生徒が取り囲む。
「まずは、スープ・ド・ポワソンから。野菜のみじん切りをスエしていきましょう。スエというのは、汗をかかせるという意味でしたね。弱火でゆっくり、野菜にうっすら水分が浮かぶくらいまで、炒め過ぎてからからにならないように、火加減には注意してくださいね」
(中略)
「あ、三波さん、ちょっと火を弱めてみてください」
叱られたわけでもないのに、それだけでもう緊張で胃が痛くなってきた。それを察したのか、マダムがやんわりと木べらと鍋を代わり、里佳は引き下がる。フードプロセッサーが回転し、粉とバターの嵐が上下した。そちらはパイ生地を作っているらしい。
「細かい粒になったバターを溶かさないように。冷水を少しずつ加えましょう」
フードプロセッサーの蓋が外れると、小さく粉が舞い、こちらの鼻先をくすぐった。
ブツ切りにされた魚介類がスエの鍋に加えられる。サフランの香りで場がぱっとはなやぐ。続いて投入されたトマトの酸味で胸がすっきりするようだ。人参と玉ねぎが蒸し煮されている鍋に、ぱらぱらとクミンシードが振りかけられる。吸い込んだ瞬間、鼻の奥が心地よい温度でくすぐられ、喉がじわじわと燻されていくような、香ばしい煙とナッツを取り混ぜたような匂いが立ち上る。
「先生、パート・ブリゼ生地、終わりました」
と、誰かが言い、マダムは振り返る。
「型で抜いていきましょう。おうちに丸型がなければ、コップを使うといいわよ」
伶子は明らかに、息を吹き返しているようだ。初参加とは思えないほど、場になじみ、てきぱきと野菜を切り分け、高い場所からラム肉に塩を振りかけている。(中略)そうしているうちに、ラム肉用ソースのためのオレンジジュースが煮詰められ、甘酸っぱい匂いが漂い始める。パン粉とコリアンダー、オレンジの皮がフードプロセッサーの中でたつまきを起こしている。この香りつきパン粉をマスタードと一緒にラム肉に塗って焼き上げるらしい。里佳はマダムの隣でつぶやいた。
「ラムにコリアンダーにオレンジですか......。味の想像がつかないです」
「でも、想像がつくものなんてつまらないでしょ?」
マダムが軽やかな口調で言いながら、包丁の背で背景を透かすほど薄くそいだ人参は、淡いだいだいのリボンになってひとひらひとひら、まな板の上に落ちていく。コサージュを成形するような手つきでくるりとそれを丸めてみせた。
「わあ、本当にオレンジ色のバラみたいですね。人参だなんて思えない」
ミキサーにかけたいちごのピューレとクリームが、氷水につけたボウルの中で混ぜ合わさる。みずみずしい赤と柔らかい白が合わされば、胸に小さな花が咲くような、ピンク色が現れた。相変わらず何もできずにいると、伶子にハンドルのついたミルのようなものを渡された。
「和子はスープの裏漉し係をやって」
怪訝な顔をすると、ハンドルを示された。ボウルの上に載せたその濾し器の中には、火の通ったブツ切りの鮮魚と蟹が入れられた。
「一番、失敗がないから。ほら」
これを押しつぶして、スープだけ搾り取れということらしい。
(中略)
「いやいや、違うでしょ。ユミさんは、チーズがあるところなら、世界中、どこにでもいくからなあ。フランスだろうとスイスだろうと」
「今日のチーズはあなたの大好きなミモレットよ! 一人で全部食べないでね」
マダムが言い、みんなが笑った。裏漉ししてとれたスープは不安になるほどわずかだった。やがて部屋いっぱいに、バターの熱い風が吹き抜けていく。パイの焼ける匂いだ。もう1台のオーブンからはラムとオレンジの香りが流れ出す。甘酸っぱさと野生味溢れる肉の香りが混ざり合い、食欲が刺激された。
料理がすべて完成する頃には、時刻はもう10時を回っていた。(中略)
オレンジや赤を基調にしている料理に合わせ、食卓の花にはミモザが選ばれた。「反対の色を選ぶと料理が映える」と、マダムが広げたテーブルクロスは淡い水色で、料理や花との調和が湖畔のピクニックを思わせる。空腹はもはや堪え難いほどで、里佳は椅子に着くなり、料理が待ちきれず、バゲットに手を伸ばし、バターを分厚く塗る。せっかくのワインの説明があまり頭に入ってこない。
漆器の色合わせもちゃんと観察せずに、運ばれてきたトマト色のスープをひとさじ、口に運ぶ。あちこちでため息が漏れた。あれほど手間をかけたのにちょっぴりの汁しかとれず、落胆していたが、この旨味のエキスといったらどうだろう。魚の隅々まで、それこそ目玉の裏側まで、甘みも苦味もまろやかさもすべてが溶け込んでいる。
オレンジ色の人参のバラがのった一口サイズのパイは、じっくり蒸し煮した新玉ねぎや人参の濃厚さに目を見張られる。クミンの香りがいっそうその甘さをひきたてていた。メインとして現れ、すぐに骨に沿って切り分けられたラム肉の華やかさに、一気に心が浮き立つ。パン粉とオレンジ皮の甘さ、青臭いコリアンダーのさくさくの壁で守られたラム肉は、力強い草原の香りがした。からすみそっくりの濃厚で硬いオレンジ色のチーズの後に出た、デザートのいちごのムースはふっくらと柔らかく、甘酸っぱい風が胸の中に吹き込んできた。
(中略)
「では、次回は2週間後。食前酒と食後酒についてお勉強しましょう。きゅっと甘いお酒をお食事に合わせるのは、日本ではあまり人気がありませんが、食欲が増す、とても美味しいものですよ」

柚木麻子著『BUTTER』より