たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ブール is『BUTTER』(15)

雲丹のブールブランソースは、ビネガーの酸味がよりいっそうそのなめらかさを引き立てる。あたたかい雲丹が舌の上でつぶれ、海の香りのするクリームに変身すれば、同じ濃度を保つ卵の黄身の味がくっきり残るフランに溶け合っていく。「ブール」はバターを意味するフランス語だと、その夜、里佳は初めて知った。

まだ外気は冷たいのに、テラス席で冷たいフラペチーノをすする白人の客が何人も居て目を引いた。デザートのクレープ・シュゼットに合わせコーヒーを飲んだばかりなので、二人はあたたかい紅茶とチャイのマグを頼む。

珍しいスパイスやオイルを見つけると買ってしまい、キッチンの棚にずらりと並んでいる。張り切って揃えたのに、賞味期限が過ぎてしまうこともしばしばだ。慌てて使い切ろうとして、香辛料が効きすぎた辛いパスタを作り、顔をしかめながらワインで流し込む夜もある。

オーブンが開いた時の歓声。鍋の蓋をマダムが得意そうに持ち上げた時の、湯気の向こうの笑顔。里佳が生雲丹の扱いに手間取っていると、さりげなく手を貸してくれたひとみさんの茶色のふわふわした後毛。里佳は深くうなずいた。

そういえば、バター醤油ご飯もパスタも至極簡単なものだし、ラーメンもバタークリームケーキも鉄板焼きもすべて外食だった。

「(中略)妹や恋人と一緒の時はちゃんと作りますが、一人のときはご飯とバター醤油とか、目玉焼きご飯とか、たらこパスタとか、そんな簡単なものしか、ってしょんぼりした感じで言うの。(中略)」

今日のレッスンで、彼女は真っ黒になるまで焼いた赤ピーマンの皮むき担当だったから、爪の間にめり込んだのかもしれない。

料理教室も物件探しも、里佳の生活そのものに深く浸透するようになった。粉と刻んだバターを練ったパイ生地を、何度か折りたたむうちに、バターの粒がいつの間にか見えなくなっていくのに似ているような気がした。

オランデーズソースを絶え間なくかき混ぜながら、チヅさんが赤い顔でたずねた。マダムの言うようになかなか「もったりと」「きめ細やかな泡が立つ」ところに辿りつかないようで、先ほどから、しゃばしゃばと黄色の液体が派手な飛沫を上げるばかりだ。
「そんなに上手くできないですけど、できなくてもすぐ次に行っちゃうんです」
ホワイトアスパラガスの根元の硬い部分をとり除きながら、里佳は答える。オーブンの鶏肉が、じわじわと香ばしい匂いを広げている。

とはいえ、一番最初に作ったラムのオレンジ焼きは生焼けだったし、スープ・ド・ポワソンは仕上がりの量が極端に少なく、クレープ・シュゼットはずたずたに破れていた。それでも手を止めず、落ち込まず、次々に挑戦していった。昨夜作った、雲丹のロワイヤル・ブールブランソースは食卓に運ぶなり、今まで聞いたことのない歓声があがったくらいだ。教室で口にしたものの中で、最も気に入った料理だから成功したのだろう。張り切ってエプロンも新調した。

柚木麻子著『BUTTER』より