たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ベトナム料理流行時代『永遠の途中』

ザ・週刊誌連載小説。ずっとあらすじ文を読んでいる感じ。
「ジェンダー」という語に注釈がついている。私は学生のときに上野ゼミに連れて行ってもらった程度には女性学に関心があったが、2007年当時に自分はどのくらい認識をアップデートできていたっけと思い巡らした。
すでに2009年の段階で差別表現のことわりもあり。

生春巻を食べながら、乃梨子がめずらしく、いくらか愚痴めいた口調で言った。

ふたりとも、焼酎のお湯割りを注文した。つまみは焼き鳥と冷奴ときんぴらごぼうだ。
「今度、飯を食う約束をしたんだって?」
「いけなかった?」

「いや、じゃあちょっと食べようかな。軽いものでいいよ」
こういう優しいところが郁夫にはある。
「あのね、今日、お隣りさんからとってもおいしい野沢菜漬けをもらったの。お茶漬けなんてどう? 私も食べたい」
「うん、じゃ、そうしよう」
真夜中、ふたりで食卓を挟んでお茶漬けをすするのも悪くなかった。

「ママ、コーヒー」
言われて我に返った。沙絵が郁夫の腕から降りて駆けて来る。今では沙絵が妻のようなものだ。
「熱いから気をつけてね」
薫はカップを沙絵に渡した。郁夫はもうダイニングテーブルで新聞を広げている。
トーストとオムレツを用意して、薫は郁夫のテーブルに運んだ。

ふたりでいちばん高いランチを注文した。ついでに、グラスワインも取った。
「いいの? 仕事あるのに」
乃梨子はあっさりと首を振る。
「いいの、これくらいの息抜きをしなきゃ、やってられないわ」
(中略)
薫は思わずハーブサラダを食べる手を止めた。
(中略)
乃梨子が白身魚の香草焼きを口に運ぶ。

せっかくの茶碗蒸しが冷たくなってゆく。栄養を考えて作った野菜と豆腐のハンバーグも、ソースが薄い膜を作り始めている。
(中略)
「おなか、すいたでしょう、ごはん、できてるわよ」
「僕、いらない」
洪太はあっさりと言った。
「あら、どうして」
「ミーティングの時、監督のうちで焼肉ご馳走になったんだ。もう、おなかいっぱい」
「でも、洪太の好きな茶碗蒸しもあるわよ」
「うーん、でも、いい」
(中略)
「ごはんは?」
「いらない、みんなでマックに寄って来たから」
「それだけじゃ栄養が偏るわ。ちょっとだけでも食べたら」
沙絵はちらりと食卓に目を向けた。
「いい、これ以上食べたら太るもん」

薫は今、青山にあるオーガニックランチショップ『ナチュラル』で働いている。
カタカナ文字の洒落た名前がついているが、早い話が弁当屋だ。ただ、女性たちをターゲットに絞り、勇気無農薬野菜をふんだんに使った低カロリーランチということで都内に十二店舗を持ち、それぞれに繁盛している。

「家族を思うのと同じ気持ちで、ランチを作ってみませんか」
もともと料理は好きで、健康のためにバランスのいいもの、安全で安心できるものを工夫して作ってきた。けれど、家族が家で食事をする回数はどんどん減るようになっていた。郁夫は残業や付き合いで毎日のように外食だし、沙絵も大概、友人たちと済ませてくる。洪太は食べることは食べるが、凝った料理を作っても、ものの五分で胃の中に掻き込んでしまう。リクエストはいつもカレーか焼肉かハンバーグだ。母親の栄養管理の行き届いた料理より、コンビニやファーストフード店の方がおいしいと思っている。これでは作りがいがなくなっても当然だ。
(中略)
新宿のオフィス街とあって激戦区だが、界隈のOLたちの人気は高く、ランチは一時を待たずしてほとんど売り切れとなった。
自分の作ったものを、多くの客たちが列をなして買ってくれる。時には「この間のかぼちゃの煮付け、すごくおいしかったわ」などと言われると顔がほころんだ。張り合いというものがなくなった家族への料理とはまったく違った嬉しさだった。

「何か食べる? 水茄子の漬物があるのよ」
などと、いつになく愛想よく言ってみた。
「そうだな、じゃあそれをつまみにもう少しビールでも飲もうかな」
いつもなら「もう、やめたら」と眉をしかめるのだが、今夜はすぐにグラスを用意した。
「私もちょっと、いただこうかしら」
そう言って、自分のグラスも持って薫はリビングのソファに腰を下ろした。
ぽりぽりと郁夫は水茄子を食べた。ビールも飲んだ。

予定のないウィークデイはもちろん、週末もほとんど惣菜や弁当で済ましている。最近のデパ地下は驚くほど充実しているので、無農薬有機野菜、低カロリー高蛋白質、食物繊維たっぷりの食事も、たやすく揃えることができる。
今夜もどうせひとりの夕食だ。テレビを観ながら、ビールでも飲み、気楽にゆっくりと食べようと考えていた。
(中略)
ローファットのドレッシングを使ったサラダを包んでもらっていると、不意に肩を叩かれた。

「もう母親なんかいらないみたい。サッカーさえあればそれでいいって感じ。今、いちばん手が掛かるとしたら夫かしら」
そう言って、薫はシナモンティーのカップを口にした。

テーブルには焼き魚や野菜の煮付けといったシンプルな料理が並んでいる。決して手を抜いているわけではなくて、ふたりとも、もう手のこんだ料理よりこんなあっさりした食事が好みに合うようになっていた。

銀座で待ち合わせ、ちょっと奮発して名のある料理屋に入った。
運ばれてきた小綺麗に盛られた八寸に箸を伸ばし、冷酒を飲み始めると、最初は靄のように漂っていたどこかぎこちない雰囲気も、少しずつほぐれていった。
(中略)
料理が半分ほど出揃ったところで、薫がわずかに声をひそめた。
「ねえ、ここのお料理、見栄えはいいけど、材料ちょっと安っぽくない?」
乃梨子も素早く頷いた。
「ほんと、鮑なんか向こうが透けちゃうくらい薄いんだもの、びっくりだわ」
「ねえ、今度、もっとおいしいものを食べに行きましょうよ」
「いいわね、いろいろ私も情報を仕入れとくわ。でも、冷酒はもう一本いけるでしょ」
「もちろんよ」

唯川恵著『永遠の途中』より