たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

学生のたべもの『もういちど生まれる』

勤めの傍ら通っていた今はなき某IT専門学校は、週末、オールでマシンが開放されていたのでクラスメートと誘いあさせてしょっちゅう利用していた。たまに1時過ぎに行くココイチも楽しみだったが、校内でホットの紅茶花伝を買って夜景を眺めながら止まり木で飲むのはもっと好きだった(アンチ午後ティーなので、コカコーラの自販機でありがたかった)。
生協のパンや、パン屋でバイトをしていた友達のことも、6畳ワンルームで部屋飲みをする愉快さも思い出したな。さすがにカシスコンクの買い置きはしたことないけど、カシスウーロンはアルコールスターター向けだよね〜

コロナ禍に大学に入った愛子さま世代はほんとうに気の毒だったが、この本に出てくるような青春が奪われていないといいなと思う。

自販機で微糖のミルクティーを買って、一人で教室の端の方に座った。女子たちの視線を感じる。

尾崎は意地悪そうに笑うと、ミルクメロンパンがふたつ載ったトレイを差し出してきた。甘いパンが無骨な短髪と浅黒い肌にまったく似合わない。
「けっこういつもかわいいパン買うよね」同じパンを二つ買うっていうところに、男子特有の食欲と、食欲そのものへのこだわりのなさを感じる。
「俺がベンチに座ってこれ両手で食っとったらかわいいやろ?」
それはおかしい、とあたしはけらけら笑いながら252円を受け取って、レシートを渡す。

来なくてもいいのに、とあたしが言うと、「ついでにアクエリ買うからさ」と答えながら、ついでにあたしの好きなシュガーコーンも買ってくれる。

パスタを茹でてカルボナーラソースと和える。麺が熱いうちに細かく刻んだチーズを混ぜると、味が濃くなっておいしい。

ひとつも信号に引っ掛からなかったことがうれしくて、こんな時間なのにまだ甘塩の鮭の切り身が残っていたことがうれしくて、軽やかに鍵を差し込む。
(中略)
ひーちゃんは昨日もおとといもこうしていましたみたいな顔をして、つややかに立ち上がっているお米を茶碗によそっている。風船のようにぱんぱんにふくらんだお米から漂う湯気を、大切そうに顔じゅうに浴びているひーちゃんを見ていると、童謡しているあたしの方が間違っているように思えてくる。
「なにしてんのって......ごはんでも食べようと思って」
「ごはんでも......ね」
「あと鮭も」
ひーちゃんはあたしの左手を指さした。西友で買った鮭の切り身が入ったビニールぶくろは、あたしより先にこの状況を理解したのか、何かをあきらめたようにだらんと力無い。
(中略)
「はい、鮭焼こ。お味噌汁もあるからね」
ひーちゃんはごはんの甘いにおいに満ちた湯気の中でほほえむと、ためらいなくあたしから鮭を奪った。やっぱり甘塩だよね、と満足そうにうなずいて、コンロをひねる。もちろんアパートにグリルなんてないから、魚だってフライパンで焼く。冷凍しようと思っていた二切れ目もしっかり焼かれる。
(中略)
「鮭、弱火でじっくりねー」
(中略)
じうじう音をたてながら鮭を焼くひーちゃんは、今日も背筋がピンと伸びている。
(中略)
「この鮭、あぶらたっぷりすぎない? 揚げてるみたいになってきたけど」
口を尖らせながらもひーちゃんは楽しそうだ。魚から出るあぶらは肉のそれと違ってやさしいにおいをしている。たきたてのごはんのにおいと混ざって、それだけでもう十分おいしそうだ。じうじうにぱちぱちが加わると、もう自然と口の端からはじんわりと唾液が生まれてしまう。
(中略)
適当に二、三曲同期させたところで、ひーちゃんが皿を二枚持ってやってきた。
「鮭、おいしそう。私、天才。なんか夜なのに暑いね」
「あんた鮭焼いてたからだよ」
受け取った皿の上では、しっかりと焼かれた鮭が表面をじゅくじゅくと泡立たせていた。一切れ77円でごはん二杯はいけると思うと、鮭は偉大だ。
「尾崎くんとはうまくいってんの?」
鮭に甘いみそをつけて食べるひーちゃんのために、アパートの冷蔵庫にはチューブに入った液状のみそが常備されている。甘くてあたたかい鮭のあぶらが、顔全体にふっと抜けていく。
(中略)
ひーちゃんは、鮭やお味噌汁がなくなるのと同時に、ご飯を一粒残さず食べきる。食事をするのが上手なのだ。
(中略)
鮭がおいしい。ごはんがすすむ。
「......尾崎、ヤキモチ妬いてくんないんだよね」
あたしは、汗をかいているグラスを握って麦茶を飲む。
(中略)
食器を片づけたあと、思い出したように窓を開けて、あたしたちはお酒をちびちび飲んだ。魚を食べたから、今日は日本酒。
(中略)
ひーちゃんは唇を尖らせながら、新しくカシスウーロンを作り始める。カシスウーロンなんてそんなジュースみたいな、と思ったとき、部屋が暑い気がしているのは酒のせいだとやっと気付いた。いつのまにかけっこう飲んでいたようだ。

「......またかわいいパン買うの?」
あたしは、トレイに載せられたチョコチップスティックとりんごカスタードパンを見ながら、片頬だけで笑った。
(中略)
大嶋さんが、あたしにチョコチップスティックを差し出した。「私のおごり。こういうときは、甘いものよ」かっこいいことするなあ、と笑いそうになりながら、あたしはそれをくわえる。舌の先っぽにチョコチップがあたって、ほんのりとした甘さが舌の上に広がった。
同じチョコレートなのに、ちがう。尾崎のアパートで食べたシュガーコーンのチョコは、もっともっと美味しかった。
「店員なのに、堂々とパン食べてるのおかしいよね?」
尾崎と入れ違いに入ってきた客が風人だということには、声をかけられるまで気がつかなかった。
(中略)
この蒸しパンもしかして焼き、蒸したて? 風人はうれしそうに声を弾ませながら、ほのかに湯気をのぼらせているくるみ蒸しパンをトングでつまむ。それも、たった今たまごから孵ったばかりのひよこを扱うような慎重さで。焼きたて、をわざわざ蒸したて、に言い直すところも、風人らしい。
(中略)
「おれもこれにした」
風人はすっかり冷めてしまっているチョコチップスティックを持ってきた。
「この、取れちゃってるチョコもちゃんとちょうだいね」
風人は小さなことを気にする。
「甘いもんばっかり買うんだね」
あたしがそう言うと、風人はリュックの中から財布を探す。風人の小さな背中では遮ることの間に合わなかったひかりが、あたしを直接照らした。
「だって、汐梨がすごくうまそうに食べてたから」

むりむりむりむり、オレまだ細切りにしないとピーマン食えねえし茶碗蒸しのシイタケと銀杏よけるし。それとこれとは関係ないかもしんないけど。

「先に買ってきた」
礼生は揚げナスの載ったトレイを持って孵ってきた。「ふざけんな!」と吐き捨てて、オレは急いで食料を確保する。
(中略)
から揚げサラダ丼Lサイズ399円をほおばりながら、オレはさっきの言葉を全部ひらがなにして頭の中に並べてみる。から揚げとマヨネーズがおいしくて、口の中に多めにごはんを入れてしまった。

そもそも、とりあえずビール、の時点でアルコール的にオレはピークを迎える。ほんとは二杯目の時点でカルーアミルクとかつぶつぶいちごサワーとか頼んじゃいたいけれど、椿の前だからそれは我慢する。

オカジュンは追加でチーズ春巻きを頼む。
(中略)
読者モデルも大変ですなあ、とオカジュンはケチャップをたっぷりとつけたポテトをくわえる。

ハルは、ポッキーのチョコレートをまず全部舐める。そのあと、雨の日のきりかぶのように水分を含んだプリッツの部分をもぐもぐとする。口の動きを見るだけでその順序がわかる。

たくさん買い込んだ野菜と肉を、熱をたっぷりと含んだ鉄板に並べていく。「焼きおにぎりつくろ!」「おこげ食べたい!」女子たちがきゃあきゃあとごはんを焼き始め、「まだ飲むなっての!」早くもビールを開けているオレたち男子をオナジュンが叱る。
(中略)
そんなに飲めやしない金色のビールを無理やりのどに流し込む。オカジュンが買っておいてくれたという甘いお酒なんてもうどこにあるかわからない。
喉元で炭酸が炸裂する。ビールは苦い。やっぱりオレはまだガキだ。
「男子肉焼きすぎ! そのへんバーベキューっていうか肉野菜炒めみたいになってるよ!」
「肉野菜炒めとかおふくろの味じゃん」
「味じゃん、じゃないよ! 皿にあったやつ全部載せたでしょ?」
(中略)
ぱちぱち、あちちち、これ食べれるよー、ふーふー、ビールが足りん! じうじう、たくさんの音の中でオレたちは食べたり消費したりする。鉄板からゆらゆらと漂う熱気と、クラスメイトの大きな声と、肉からしたたり出るうまそうな脂と、鼻から入って腹まで届く匂い。

「ついこのあいだまで民家だったところが、最近甘味喫茶やり始めたんだよ。隠れ家的な感じでさ、下北沢にあるよ。わらびもちがおいしいって評判」
本当か嘘かもよくわからないことを言って、礼生が揚げナスを食べ始める。スタバやドトールとかじゃなくてわざわざそういう店に行くっていうところが礼生様だ。
「あ、そーいえば」
デミチーズハンバーグを一口食べると、オレは言った。

ナツ先輩の形のいい歯でしゃりしゃりと削られているガリガリ君から、ひとつふたつぽとりとソーダ味のしずくが落ちる。
「あげる」
あ、ありがとうございます、と、俺は戸惑いながらも差し出されたガリガリ君を受け取る。ナツ先輩の行動はまったく読めない。ガリガリ君は俺のテンションが下がるくらいに溶けていたので、本当はずっと前から後ろに立っていたのかなと思う。

桜と気まずい、と相談をしたときも、「そうかー」と言ってぶどう味のぷっちょをひとつ差し出してきただけだった。グミの部分が歯につまるから嫌い、と桜がいつも言っていたぷっちょ。
「なんでこの会社はグミを入れようと思ったんすかね? 噛んでる間にどうせバラバラになるのに」

駅までの道を歩いている途中で、ナツ先輩はコンビニに寄ってチョコモナカジャンボを買った。甘党なんだよね、と言いながらいつも甘いものを食べているナツ先輩は、それなのに全然太らない。
(中略)
「どうせお前のバイト先のまっずい焼肉だろ、おごるっつっても」
肉焼くだけなのにどうしたらあんなにまずくなるんだよ、と、ナツ先輩は、あまりうれしくなさそうに笑った。
(中略)
あいつは烏龍茶じゃなくて絶対に黒烏龍茶を選ぶような女だった。体重が200グラム減ったとか、昨日焼き肉を食べたから今日はキャベツしか食べないとか、そういうことで毎日頭がいっぱいらしかった。ナツ先輩の前でもそういう話ばかりするから、俺はなんとなくいつも緊張していた。

「ただいま」の声を待つことを諦めた母さんは、たまに鍋の中をのぞきながら味見をしている。俺は、匂いの波の中に、カレーとは別のものが混ざっていることに気がついた。
(中略)
父さんの作るカレーライスは、世界一おいしかった。今日は仕事が早く終わったからカレーでも作るか、という一言は、子どものころからずっと、俺にとっては魔法の言葉だった。
父さんのカレーは、ぴかぴかに光る金色をしていた。子どものころの俺の目にはそう映ったから、学校で絵の授業があったときもカレーの部分を金色に塗った。友達みんなに笑われながら、めったに使わない金色の絵の具のチューブを中身がなくなるまでぎゅうぎゅうと絞ったことは今でも覚えている。
もうすぐ二十歳なのに、俺はまだ父さんが作ってくれたカレーの味を忘れることが出来ない。
(中略)
「新、食べましょう」
母さんの言葉に、俺は我に返る。ナツ先輩とラーメンでも食って帰れば良かった。
二人が座るにしては広すぎる食卓で、俺はやっぱり違うと思った。鷹野さんと出合ってから、母さんはよくカレーを作るようになった。だけど、何回作っても父さんのカレーと同じ味にはならない。それでも願かけでもするように、母さんはカレーを作り続ける。

「わっっっけわかんなかったっすよね!?」
俺の言葉に、ナツ先輩はむむむむむとうなりながら、縦にも横にも見えるように首を振った。と思ったけれどよく見ると、わがままに伸びるトルコ風アイスを切ろうとしているだけだったようだ。

卵がたっぷりと入ったカルボナーラのソースはあっという間に固まってしまった。

俺は、買ったあとにリバーシブルだと気づいたパーカのフードをかぶって、ナツ先輩が買ってくれた桃味のクーリッシュをくわえた。中身はかっちかちなので、今は桃の風味だけを味わうことにする。
(中略)
クーリッシュがやわらかくなってきた。ず、と思いっきり吸ってみると、袋がへこんだ分、口の中に桃の風味のみが広がる。

おしることわらびもちが絶品らしく、ほのかに漂うお香のかおりがとても落ち着く。
(中略)
結実子さんが冷やし抹茶をこくりこくりと飲みながら、物珍しそうな表情で俺の目を見つめていた。
「これすっごくおいしい。京都みたい」
「抹茶イコール京都」
「ごめんね安易で」
わらびもちも頼んじゃおうよ、と結実子さんは人差し指でとんとんとメニューをつつく。こういう雰囲気勝負の喫茶店は高いんだよな、と冷静に思いながらも、俺は、やっぱり結実子さんを描きたいと思った。
(中略)
わらびもち二皿お願いします、と結実子さんはためらわずに注文する。580円 × 2、追加。けっこう辛い。
(中略)
「私、困ってるひとには協力するんだよ」
言い終わるが早いか、結実子さんは運ばれてきたわらびもちにぱくついた。すげーおいしー! と意外と太い声を出したので、俺は思わず噴き出してしまい、皿からぶわりときな粉が舞った。

「その日、鷹野さんが飯作ってくれてさ」
「それ、カレーだったんでしょ」
結実子さんは、小さなくちびるに最後のプリッツをくわえたまま、ほんのちょっとだけ悲しそうに続けた。
「誰が悪いとかじゃないけど、なんだか良くないことが良くないように重なってるね」
鷹野さんの作ったカレーを一口食べて、その強すぎる辛さでスイッチが入ったかのように俺は大声で喚いてしまった。
(中略)
「そんなにカレー辛かったの?」
「いやいやそういうことじゃなくて」
「わかってるよ。冗談でしょ」
それから母さんは、父さんが作るあの味を再現できれば俺の中の何かが変わるとでも思っているのか、俺を試すようにカレーライスを頻繁に作るようになった。
だけど、父さんがカレーにかけた魔法を知っているのは、俺だけだ。
「私、一回バナナ入れてみたことある」
「バッバナナ? なんで?」
「酢豚にパイナップル、カレーにバナナみたいな。たぶん頭イッてたんだと思う」

母さんが部屋を去り、結実子さんが俺のところにティーカップを持ってきてくれる。「なんだか、初めて会った日の冷やし抹茶を思い出すね」結実子さんはおそるおそる熱いレモンティーをすする。

「今日のごはん何?」椿は何を勉強しているというわけでもないのに、毎日帰りが遅い。大学生ってそういうものなのかもしれない。私はいま、勉強をするということ以外に夜更かしをする方法を思いつけない。
振り返りながら、「今日はアジの開き」と答えた途端、私は言葉を失ってしまった。

私は、英作文の下にある赤ペンの「excellent!!」がうれしくて、いつもより少し高いミルクティーを買った。ウエストが窪んでいててのひらにしっくりとくるペットボトルを手に、階段をのぼっていく。

アスパラガスは苦手だから、できるだけ味がわからないうちにお茶で流し込む。母は、少しでも食べやすいようにとバターで味付けをしてくれているけれど、それでも独特の青臭さは消えない。

兄貴がきらいなシイタケを私が食べ、私がきらいなナスを兄貴が食べていた夕食の空間は、もう遠い過去のように感じる。

氷がふたつ入ったカルピスを飲みながら、兄貴がキッチンから出てきた。兄貴の作るカルピスは私には少し濃い。氷が全部溶けてやっと、ちょうどいいくらいになる。

一度シャワーを浴びて、コンビニで買ったサラダを食べてから、自転車で新宿に行こう。
朝井リョウ著『もういちど生まれる』より