たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

うなぎ『らんたん』(6)

私はたぶん生涯authenticなうなぎの蒲焼きを食べることはかなわないだろうなという予感がある。まあ、食べられたとして違いがわかるかといえばわからないかもしれないが。

昭和21927)年4月、道は日本に帰国した。

一年ぶりにタクシーで軽子坂をのぼり、甘辛く香ばしいにおいに引っ張られるようにして、花崗岩を敷き詰めた小径を辿っていくと、ゆりが好物のうなぎを焼いて待ってくれていた。

お弁当の時は必ず温かい味噌汁やスープが提供され、よく見れば具がほとんどないことも多かったが、それだけでも生徒は豊かな気持ちになった。お弁当を忘れた子には、道が自分の昼ごはんをあげるということもあった。

ボナ・フェラーズが二度目の来日をしたのは、そんな昭和5年の夏のことだった。湘南・片瀬の小さな別荘は、道がくつろいで過ごせるように、と乕児とゆりがそれぞれアイデアを出し合って親戚の建築家に作らせた和洋折衷の凝った建築だった。

(中略)

この別荘の最初の客として、万年中尉のフェラーズと結婚したばかりの妻、ドロシーを迎えた。手作りのすき焼きでもてなすと、彼は義子を膝に載せたまま、あの頃のようにたくさんおかわりした。

「道さんとゆりさんにご馳走になったあの味がずっと忘れられませんでした。ドロシーにも食べてもらいたくて、アメリカでもしょっちゅう作ってみたんだけど、なかなかこうはならないんですよ」

食事が進むうちに、彼はぎょっとすることを言い出した。

「来日の目的はもちろん、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの研究をさらに深めることにあります。妻の節子さんにお会いする手はずも整っています。彼が亡くなったのはもう25年も前ですが、今でも書斎をそのまま残しているそうで、ぜひ見てみたくて」

「えっ、まだ好きだったの?」

「みなさん、もう寒いわ。中にお入りなさい。ココアとポップコーンが冷めてしまうわよ!」

お手伝いのおりんさんの焼く香ばしいマフィンのにおいが二階まで流れてきた。髪を整え、生徒たちの揃う食堂へと下りていった。

(中略)

料理上手なおりんさんがそれぞれの好物を順に作ってくれるので、食卓に向かうだけで、まるで世界旅行をしているような気分になれた。今日はアリス・スズキの好物だというマフィンと炒り卵にソーセージ、ミルク入りのコーヒーだった。昼食とおやつは生徒たちが協力して作ることになっているので、時たま怪しげなメニューが登場することがあり、道はできるだけ朝食をたっぷりとるようにしていた。道は「食事中はみんなが楽しくするように心がけましょう」としながらも、銀製のナイフとフォーク、リングでまとめたナプキンを並べた食卓で、かつてサラ・クララ・スミス先生がそうしてくれたように日々、少女たちにマナーを教えている。

(中略)

年代物のストーブの上では、りんごのジャムがぐつぐつと煮えていた。

「新渡戸先生のお見舞いで、築地の聖路加病院に行くつもりなの」

道はコーヒーをすすりながら言った。

(中略)

「今すぐ走って果樹園から、美味しいみかんをとってこなくちゃ!」

「そうだ、このマフィンも持って行っては?」

少女たちは朝食が終わるなり、たちまち散り散りになった。

しばらくは沈んでいたタエだったが、台所に入って買ってきたデザートの材料を広げると、徐々に元気を取り戻していった。内部生たちに手伝わせて、くるみを刻み、鍋でチョコレートや牛乳、お砂糖を練り上げていく。

「すごく美味しい。ほろほろって口の中で崩れて、すぐに消えて、とっても甘くて、風味があって」

冷めて固まったファッジの欠片をつまみ食いした生徒は、目を丸くした。

「チョコレートファッジよ。アメリカではポピュラーなおやつなのよ」

タエは得意そうに言って、それを一口大に切り分けていく。

「あとで作り方を書いたものをもらえないかしら」

「喜んで!」

木ベラを手に、女の子たちは口の周りをチョコレートだらけにして笑い合った。ファッジを前にすると留学生たちもまだまだあどけなく、競うようにして頬張った。

(中略)

「チョコレートファッジはいかがですか?」

「しぼりたてのグレープジュースはいかがですか?」

「グレープフルーツの皮で作ったマーマレードもありますよ」

「サンドイッチにホットドッグ、お紅茶もございまーす」

留学生も内部生も一緒になって屋台に立ち、声を張り上げる。珍しくて美味しそうなにおいにつられて、生徒や保護者はもちろん、訪問客もたちまち集まってきた。お菓子や軽食が飛ぶように売れた。留学生たちのタップダンス発表会も大喝采を浴びた。

「ありがとう、あなたたちのこと忘れないわ。船の中でぜひ、これを食べてね」

そう言って進み出た第一寮代表の高等部生が差し出したのは、みんなで力を合わせて作ったチョコレートファッジの包みだった。

柚木麻子著『らんたん』より

らんたん

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