たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

大正9年のマンハッタンの日本人『らんたん』(4)

ゆり(30代)はコロンビア大学に、道(40代)はユニオン神学校に通学。ふたりで留学生活。こんなの楽しいに決まってる。そこにロックフェラー家との邂逅が。

訪問客の誰もが遠慮なくよく食べるので、道とゆりは週の最初に一週間分の献立を女中さんも交えてよく考え、大量の買い出しをする。常備菜や保存食の準備も怠らなかった。道がサラ・クララ・スミスに習ったジャムやプリザーブやピクルス、ゆりがアーラム大学で身につけたキャンプサパーの知識はとても役にたった。瓶詰めをあけて、庭に火を起こし、野菜や肉や卵を焼くだけで、即席パーティーの出来上がりだ。誰かが急に訪ねてきても、楽しくおもてなしが出来る。そんな来るもの拒まずな道の姿勢は、こんな風に望まない客までも寄せ付けてしまう。

「あともう一滑りしたら、部屋に戻りましょう。さっき市場でお買い得なロブスターがあったじゃないですか。奮発してお昼はえびのてんぷら風にしましょうか。おつゆに西洋大根のおろしをたーっぷり添えて」
と、食欲をそそるような節をつけてみせた。こちらの食品材料を使って和食を作ることはもはやお手のものだ。トマトも卵も生では決して食べない彼女の好みも完璧に把握している。そとそろと立ち上がりながら、道は言った。
「でも、今夜は夕食のご招待を受けているじゃない? アビーさんとおっしゃったかしら。贅沢は明日に回しましょうよ」

図書館を出ると、屋台で揚げたてのドーナツを買い求めた。顔なじみの女主人は、煮えたぎる油に丸く絞った生地を放り込みながら、第一次世界大戦後にひどい不況になった、来年は上向いてくれなきゃ困るよ、とぼやいていた。
(中略)
「私たちから見れば、ここは夢みたいな街よ。禁酒法は適用されているし、なにしろ、アメリカ女性は参政権を持っているんだもの」
油の染みた温かな紙袋を受け取りながら、それぞれに彼女を励ました。
(中略)
二人はドーナツを胸にアパートへと帰り、ゆりがミルク入りのコーヒーを淹れた。おやつの後で、それぞれ明日の授業の予習をすると、再び出かける準備をした。

なによりも道とゆりを感嘆させたのは、階段下に飾られたクリスマスツリーだ。これまで見たどのツリーよりも大きく、飾られているおもちゃやお菓子、鈴やガラス細工が豪華で、またその種類が豊富だった。モミの葉と手作りのジンジャークッキーとオレンジのにおいに二人はうっとりと酔いしれた。

一家全員とお祈りをして囲んだ長いテーブルでの食事も、斬新な材料を使っていたり濃い味つけがしてあるのではなく、新鮮な野菜や果物に溢れ、たんぱく質もたっぷり。あっさりしていて滋養に満ちているから、素直に美味しいと感じられた。全てがしっくり調和し、心身に馴染んだ。それはきっと彼らの知性によるものではないか、いやいや、それこそが資本というものなのか、などと道とゆりはその後、幾度となく話し合うことになる。
アビーが優雅にほうれん草を口に運びながら、こちらを見つめた。
(中略)
ジュニアがチキンを取り分けながら、ちょっとだけ皮肉っぽい口調になった。

「お願いです。どうか一口でいいから、召し上がってください」
好みに合わせたポタージュスープも、彩りの良いサンドイッチも、道は決して手をつけようとしなかった。

柚木麻子著『らんたん』より

らんたん

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