たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

アメリカ人も読みたい『らんたん』(1)

JTCで業務を遂行できるレベルの日本語上級者から「語彙を増やしたいので日本語のページターナーをおしえて」と相談されて何冊か小説を勧めたのだが、その中で彼が「いちばん面白そう、長いのもいい」と選んだのがこの1冊。マンハッタンの紀伊國屋に買いに行ったって。

らんたん

らんたん

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「ピーナッツタフィって召し上がったことあります? 女子英学塾時代、よく恩師の津田梅子先生がこっそり寮生に作ってくださったお菓子なんですけどね。津田先生は獅子のようなこわい方で、英語も本場仕込みでいらっしゃるでしょ? 私、落第しかかって何度泣かされたかしれませんけど、スウィートな部分もあるお方だったんですのよ。でもね、私、この間、久しぶりに見よう見まねでピーナッツタフィを作ってみて大失敗してしまいましたの。お鍋で砂糖と水を煮詰めて、甘い香ばしい香りが立ち込めたら、刻んだピーナッツをたっぷり加えるんですけど、とろけたお砂糖が溶岩のように熱いってことと、一瞬で固まることをすっかり忘れて味見してしまって......。歯がピーナッツと一緒に飴で固まってしまって、丸一日、口の中にずっとタフィがあるような状況だったんですの」

シーツをピンと張らせるベッドメイキング、熱い紅茶に焼きたてのスコーンとジャムを並べたアフタヌーンティーの給仕、女中がつかまらなければ自らプリンスたちの制服やハンカチにアイロンをあてることまでお手の物となった。

ハネムーンと乕児の仕事のための視察を兼ねて、二人は英領インドに旅立った。焼けるように暑い気候の中、美しい寺院を見て回り、シュロの葉で扇がれながら香辛料の利いた煮込み料理や甘い果物を食べ、夕暮れのガンジス川沿いを歩いた。アメリカのアーラム大学に留学経験のあるゆりの英語は流暢で、異文化を前に尻込みする様子もないのがますます好ましかった。

ゆりの家事はテキパキとしていて無駄がない。また、料理も上手く、鶏肉のクリーム煮入りのパイから高野豆腐の煮物、バタークリームのケーキまで和洋中を問わず何でも手早く作った。道さんが食いしん坊なのに料理はからきしダメなので、自然と私が勉強するようになった、と言った。乕児が英国の習慣に従って寝際の彼女にブランデー入りの紅茶を運ぶと、ゆりはとても喜んだ。
(中略)
自宅から坂を下っていったところにある神田川でうなぎを釣ろうと思う、とゆりは言い出した。うなぎとメロンは道の何よりの好物なのだという。日本に戻ってきて最初の食事は、自分が捕まえてさばいたものを故郷の名店から取り寄せた特製のタレで蒲焼にして振る舞いたい、とゆりはうきうきした調子で言った。
「私、実家が三島でしょう。うなぎ料理には慣れてるの。道先生、うちの実家に遊びに来るたびに、うなぎを召し上がっていたの。もともとは伊勢神宮の神職のお嬢様なのよ。亡くなったお父様がよくうなぎを召し上がっていたらしくて、それで大好物なのよ」
敬虔なクリスチャンにしては随分と俗っぽい食の好みだな、と思ったが、もちろん口には出さず、乕児はこう尋ねた。
「神職の娘がどうしてキリスト教に?」

春の日差しが穏やかなその午後、割烹着にほっかむり姿のゆりは庭に火鉢を出し、鉄串刺しにしたうなぎを焼いていた。タレを刷毛でこまめに塗り、うちわで扇ぐ度に、家中に香ばしいにおいが流れていく。このところほぼ毎日のように長靴と麦わら姿で川釣りに出かけ、ヌルヌルぬめるうなぎの入ったバケツを手に帰ってくる。これで三度目の試作だった。
(中略)
食卓に着くなり、うなぎの丼を見た道は子どものようにはしゃいだ。
(中略)
道は祈りを終えると、またもやすっきりした顔でさっさと箸をとった。甘辛いタレのしみたご飯と、こってりとした蒲焼を交互に、時に重ねて口に運び、無言のまま顎をわしわし動かし続けた。あまりにも旨そうに食べるので、乕児もつられて箸を進めた。食後、乕児は紅茶をすすめ、葉巻を取り出しながら、一応マナーとしてこう尋ねた。
「吸ってもよろしいでしょうか?」

「六畳町」ではお菓子は絶対厳禁で、この間、取り巻きたちが道先生のために好物の落花生を用意していたら、ミス・ツダに見つかり、すぐさま「なんですか、規則違反ですよ」と取り上げられた。

おじいちゃんはそんな道に同情して、美味しいものをこっそり食べさせてくれる。ザラメをまぶしたお煎餅や、鯛飯、それにタレのかかったうなぎ飯など。そのせいで、道はくいしんぼうで、ぽっちゃり太っていた。
(中略)
庭にはバナナという果物の立派な木があるが、何故か実はならない。「いつかバナナがなったら、一番に道に食べさせてやろう」とおじいちゃんは胸を張る。白くて甘くて柔らかくて香りがいいとされるその果実を食べるのが、道の夢だった。

お隣に教わった、炭火に布団をかぶせる簡易炬燵をみんなで作って、一斉に足を突っ込み、もらい物の野菜を入れたおつゆで身体もほかほか温まってきた。

そんなわけで、お母さんが持ってきてくれる売れのこりのおまんじゅうが、唯一の楽しみとなった。

柚木麻子著『らんたん』より