たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

戦場『最後の晩餐』(1)

小説やルポの食べ物シーンの引用が非常に多いエッセイ集だが、開高氏の地の文だけを引っ張る。

50年代のある年に老舎は友好代表団の団長として一行をつれて日本へいき、帰途に香港に立寄ったことがある。自分はちょっとコネがあったのでホテルに老舎を訪ね、いろいろと雑談をしたついでに、革命後の中国での知識人の暮しはどんなものでしょうかと質問したが、老舎は一言も答えなかった。(中略)ところが、いよいよ明日は出発という日になって何を思ったのか老舎は、突然、料理の話をはじめた。重慶か、成都か、どこかそのあたりの古い町に、何でも部屋一つぐらいもある巨大な鉄の釜をすえつけた家があり、この百年か二百年、一日として火を絶やしたことがない。野菜だの、肉だの、豚の足だのを手あたり次第にほりこんで、グラグラと煮る。百年、二百年そうやって煮つづけてきたのだ。客はそのまわりに群がって、茶碗にすくって食べ、料金は茶碗の数で頂く。その釜はどんな色をしているか。汁はどうなっているか。何をほりこむか。いつ、ほりこむか。野菜は。肉は。どんな客が、どんなぐあいにたったり、すわったりするか。何杯ぐらい食べるか。何の話をしながら食べるか。そういうことを老舎は微に入り細にわたり、およそ3時間近く、ただその話だけをした。その話しぶりにはみごとな生彩があった。自分はうれしかった。あの『駱駝祥子』の描写力がまだまだ生きているのだとわかってうれしかった。その日、老舎は、その料理の話だけを徹底的に語り、翌日、再見といって北京へ帰っていった。

......その釜のまわりにいるのはチャンサンリースー、日本語では張三李四といいます。そういう人たちだそうです。どこにでもそこらにいる人たちだ。こういう人のことを日本語では何といいますかね?」

「八つぁん熊さんです」

空缶を持ってペーチカのまわりに集ると、配給のマンジュウを水でとかしてシルコをつくるとか、卵の殻やリンゴの皮を集めて焼いたり乾したりしてフリカケ粉にするとかの工夫に腐心する。廃物利用というわけだが、これまた軍隊でなくても、昨日今日、われらが周辺によく見うけられるところである。

アメリカ人をのぞいてみたらヴェトナムの戦争は同国の貧乏人同士の殺しあいだったが、アフリカのこの戦争も貧乏人同士の殺しあいであった。私はビアフラ側に入ることができないのでやむなくナイジェリア政府軍について従軍したわけだが、田舎へいけばいくほど、最前線に近づけば近づくほど、飲食をかさねればかさねるほど、朦朧が脳の表皮を破ってきた。前哨戦の陣地へいって隊長といっしょにビールを飲んだり、昼飯を食べたりすると、隊長の昼飯だからおそらく同級中の上物ということになるのだろうが、どこへいってもニワトリのカレー煮の汁に澱粉のダンゴをつけて食べている。ただそれだけである。ニワトリが上物か下物か、オツユのあるトリか、そうでないか、カレーの煮汁がちょっと手がこんでいるか、そうでないか。こういう相違はあるけれど、ニワトリのカレーの煮汁に澱粉のダンゴをちょいちょいつけて食べるという一点ではどこへいってもおなじことだった。貧しい市場、かそけき路傍の店、難民救済所、どこへいってもそれだった。トリのカレー煮であろうとなかろうと、食べる物さえあればもうそれで至福なのだが、どうしても注意をひかれるのは、攻めてるはずの政府軍側の地帯の子供たちが、攻められている地帯からはこびこまれてくる子供たちと、やせ方、腹のふくれぐあい、頭が大きくて首が細いぐあい、手や足がマッチの軸みたいであること、さまざまの点で、まったくおなじといっていいくらいの状態であることだった。

(中略)

......ビアフラ戦争がなくてもわが国はいつもこうなんです。栄養がないんです。おまけに、親が子供よりいい物を食べますしね。子供はやせますよ」

ラゴスでそういう意味のことを口早に語った若い知識人は、羞しさのためにせきこむような口早になったのだが、うなだれて顔を赤くした。

(中略)

ここでは食物連鎖がむきだし、ぶっちゃけ、率直そのもので短絡しているのである。人は生きているうちから鳥に狙われ、死ねば食われるのだ。そして、味覚についていえばその人が一生に味わった料理の数よりおmおそらくハゲワシのほうがたくさんの種類の肉の味を知っているのではあるまいかと思う。(中略)ある種の肉は腐る一歩手前でこそとろりとしたうまさがでてくるものなのだから、いよいよそうなのではあるまいか。大食できるかどうかはべつとしても、すくなくとも鳥の記憶する美味の数のほうがヒトよりはるかに多いであろうかと思う。

(フランス料理でブルギニヨンというのは正統派としては牛肉をブルゴーニュ産のぶどう酒で煮こんだものである。しかしその牛肉にコツがあって、自家分解を起していない新鮮なのではダメで、年功を経て切磋琢磨した男のアレのように紫ばんだ、罪深い色になった、そのあたりの日数のを選んでやるとよろしいのである。ビフテキも同様である。ただし、というものがあって、腐りすぎ、熟しすぎると、またダメ。)

[引用者注:アウシュヴィッツ訪問後] ワルシャワにもどって、しばらく、身辺に非現実の感覚が濃厚にたちこめて、口をきく気力もなかった。ホテルの部屋にこもってポーランド産の精選(ヴイヴオロヴァ)ウォトカを毎日、夕方から飲みにかかり、酒精のキラキラする霧でどうにか中和できないものかと、あせったものだった。ポーランドのウォツカは南京虫から月ロケットまでお国自慢に夢中になるモスコォの酒通もひとことそのブランドを囁かれると、ふとだまりこんで、やがてダァ!といって強くうなずく、それくらいの銘品なのだが、当時、ホテルの売店ではドルで買うとひどく割引きして安くしてくれるので、毎夜私は新しい瓶を買って部屋にこもった。食堂へいってビフテクと呟けばビーフステーキがあらわれ、コンソメと呟けばスープがあらわれるという正常さが、どうにも背理の感覚だったし、それは食事のあいだずっとつづき、酒瓶を抱いて部屋にもどっても、灰皿、スタンド、壁、ベッド、すべての事物にひそかやでしぶとい、鮮烈なよそよそしさがあった。

ユダヤ人の囚人たちに音楽堂を建てさせ、囚人のなかから音楽家を選びだして、バッハやモツァルトを演奏させた。モツァルトについては、天使のようだと呟いて涙を流した親衛隊士官が何人もいたと伝えられている。人灰でむくむく育った、オツユたっぷりのキャベツやジャガイモを彼らは食べた。キャベツは酢で煮て"ザウァークラウトにして豚の脛肉(アイスバイン)につけて食べ、ジャガイモはすりつぶしてポテトケーキにして食べた。食後には配給のタバコをちびちびと大事にして吸い、ときどき1杯か2杯のシンケンヘーガーヤシュタインヘーガーなど、乾いて透明な焼酎をふるまわれて感動し、少年時代にお母さんに作ってもらったおなじ料理の、何万回語ってもいつもみずみずしい、誰にも感得されない食談を、つつましく繰りかえし喋った。困るのは風向きだけだった。風の向きが変ってあちらこちらの大穴で日も夜もなく焼きつづける死体の匂いが官舎の方向に吹いてくると、しばしば会話がとぎれたり、食欲が落ちたりした。しかし、食べることはつづけられた。

いまいる一匹はそのペルシャがどこかの日本猫と交歓した結果の混血娘でペルパニーズとでも呼ぶべき種族である。いつもアジの水煮を食べさせているが、ときどきオカカになることもある。ネコをネタにして随筆を書いて原稿料が入るとナマブシを買って若干リベート申上げることがある。たいていの猫がそうだけれど、この猫もたいそうな鑑定家で、たまにフランス産のチーズを食べさせるとすっかり味をおぼえてしまい、一回か二回、食事をぬいてぺこぺこの空腹にしてやらないことにはもとの食事にもどろうとしない。猫もさまざまで、魚のほかに手焼きセンベイが好きだったのや、味付ノリが好きだったのもいた。

香港の菜館の食譜(メニュ)にとあれば蛇のことで、これは骨からうまいスープがとれるうえに女の瞳が美しくなるという伝説がある。またとあれば、これは猫のことである。龍虎鍋というのは蛇と猫の寄せ鍋である。

開高健著『最後の晩餐』より