たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

その手をにぎる『その手をにぎりたい』(5)

幸か不幸か一度も入院の経験がなく、したがって病院食を食べたこともない。盲腸で入院した家族は、ベッドでテレビばかり眺めていた、これほど食べ物のことばかりやってるとは思わなかった、と言っていた。英国で出産した家族は、「やべー」と言いながら馬のエサみたいな写真を送ってきた。生の人参がコロンコロン。

五分粥もわかめの味噌汁も里芋と海老のあんかけもすべて、同じにおいがする。食事の時間ともなると、このにおいが病院の隅々まで行き渡り、空気まで同じ味になる。こうして咀嚼していると、まるで病院の一部を体内に取り込んでいる気さえした。

戻り鰹の美味しい頃だ。フカヒレが食べたい。そろそろボジョレーも解禁する。

どんなに気が塞いでいても、舌の上にとろける濃厚な美味さえあれば立ち上がることが出来た。言い換えれば、美味しいものがなければとても日々を乗り切ることなど出来なかったのだ。目の前の煮物にかかったあんは冷え、縮こまって爪先ほどになった海老にオブラート状になってぺったりと張り付いている。

「この海老、ぱさぱさ。まるで紙細工みたい。冷凍物を使っているにせよ、もうちょっとどうにかならないのかな」

(中略)

「この季節に車海老の握りが食べられないなんてねえ。甘くてぷりっと、身がきめ細かで美味しいのに。活きたままをゆでるから少しも水っぽくないの。ああ、早く『すし静』にいきたいなあ」

 

「病院を抜け出してきたの......。どうしても一ノ瀬さんの車海老が食べたくて」

(中略)

「いけません。常連さんに聞きました。会社が大変で胃潰瘍だって......。今は何もお出しできません」

「どうしてよ。澤見さんには、体に悪いって知ってても、ウニだのイクラだの出していたくせに」

(中略)

つっけんどんに差し出された湯のみを見て、青子は憤慨した声を上げる。

「お白湯?」

「そうです。胃潰瘍のお客様にお酒は出せません」

「お金ならちゃんとある。お願い。ねえ、車海老を握って」

「いけません」

(中略)

突然、目の前に差し出されたのはザルの上で湯気を立て、弾けんばなりの身を震わせている真っ赤な車海老だった。

「車海老です。気が変わりました。どうしても召し上がりたいとおっしゃるから......。せめて、消化のよくなるように、おぼろにしたいと思います」

「え、悪いよ。もったいないじゃない。そのままいただきます」

慌てている青子に見向きもせず、一ノ瀬さんはすり鉢にまだ熱い車海老を入れ、すりこぎで丁寧につぶし始めた。もったいない、ともう一度つぶやくが、気にする様子もない。(中略)また厨房に戻り、どうやらすりつぶした海老を鍋で丁寧に炒りつけている様子だ。ぱちぱちいう音とみりんの匂い、海老の香ばしさが店を満たした。やがて、彼はこちらに茶碗を差し出した。

ほんの少しだけ盛りつけた白米の上にたっぷりと海老おぼろがかかっていて、木の芽も飾られている。おぼろは思わず唇がほころぶような、淡い桜色だった。

「ありがとう......。こんなに立派なおぼろじゃないけど、昔、こういうおぼろを母にご飯にのせてもらったな」

小さい頃、青子は病気がちで食の細い子供だった。母が少しでも栄養を取らせようと、肉や魚を色のよいおぼろにして、お弁当を彩ってくれたっけ。

「いただきます」

青子は箸を取り、こわごわと一口を運んだ。それは口の中でほろほろと崩れる。優しい甘みとふくよかな味わいが春風のように吹き抜け、つややかな白米がはかない旨みをいっそう引き立てている。

「初めてね。お鮨じゃなくてお茶碗で温かい白いご飯を出してくれたの」

(中略)温かい飯とおぼろが喉を通るなり広がっていったのは、久しぶりに味わう心からのくつろぎだった。

(中略)

「大将がね、澤見さんのわがままでおむすびを出したでしょう?」

「ああ、そういえば......。そんなことがありましたね」

(中略)

箸をとり、おぼろとご飯をゆっくり噛みしめると、泣きたくなるような甘さが喉の奥へ奥へと放り込まれていく。それは体の先端にまで広がり、血を巡らせ、青子を初めて温めた。

 

「だから、最初はやっぱりヅケから始めようかな。私がこの店で最初に食べたネタだもの」

おしぼりで手を拭い、青子は快活に告げた。酢飯が美味しい季節がやってきたのだ。純粋にこれから始まる食事にわくわくしている。一ノ瀬さんの手の中から、握りが生まれるのを息をつめて見守った。いつものように、彼の分厚い手のひらから、ルビー色に輝く握りを受け取った。唇にネタの温度が染み渡る。そう、この味だ。青子の運命を大きく変えたのは。醤油味のしっかり染みこんだ鮪とふんわりとほどける舎利に、自然と目を閉じる。

続けて、あおり烏賊、小鰭、鯵、赤貝、ウニ、と次々に注文していった。

(中略)

「そうね、そろそろおしまいにしようかな。最後のネタは山葵の巻物をお願いします」

一ノ瀬さんが、ほう、と満足そうに息を吐いた。「すし静」が素晴らしいのはなんといっても、舎利とサビの質とバランスである。何を食べても目を見張るほど美味なのは、土台となるこの二つがずば抜けているからだ。最後を飾るのにこれほどふさわしいネタはない。

鈍く光る漆黒の海苔で巻かれた細巻を彼の手から受け取る。ここの山葵は伊豆の天城でとれた三年物を使っているらしい。口に運ぶと、さわやかな甘みの後にすぐ、つん、と喉から鼻へ山葵の鮮烈な香りが吹き抜けた。その風を堰き止めるように、中心に巻かれた、心地よい噛み応えの甘辛い何かが歯の間で二つになった。このしなやかな紐状のかたち、さくりと切れる柔らかさ、よく煮付けられた力強くこっくりした味わい。久しく口にしていないけれど、この味を忘れることなんて出来るわけがない。それは生まれたその日から青子の芯だったのだ。ふいに故郷の山並みが蘇る。明け方の空気は青く冷たく澄んでいて、こんな風に全身の細胞が覚醒する。目の前にはかんぴょう畑が広がっていた。そこに立ってこちらを見ているのは若き日の母だ。

(中略)

「かんぴょうと山葵ってこんなに合うんだね。甘みが引き立って、すっきりと洗練された味になる。知らないことってまだまだたくさんあるんだな」

「勝手な真似をして申し訳ありません。本木様、ついに一度もかんぴょう巻を注文されなかったから......。最後はどうしても召し上がって頂きたかったんです」

(中略)

「(中略)母はかんぴょうをむく名人だった。太陽が出たらすぐにかんぴょうを干せるように、皮むきは朝の3時から始まるの。寒い明け方、母はユウガオの実の中心に電動皮むき器の芯を立てて、帯状になるように刃物をすべらせていた。簡単なようで熟練した技術を必要とするの。栃木がかんぴょうで有名なのはうちの母みたいな技術者がたくさんいるせい。でも、その丸まった背中を見るたびに、家や畑にしばられる自分の未来を見るみたいで嫌だった。でもね、今わかった。母はしばられていたんじゃなくて選び取ったんだって」

(中略)

「このかんぴょうの味、母の味付けにそっくり。銀座の一流店の味を農家の主婦が作り出していたんだよ。自分のむいたかんぴょうにプライドがなきゃ出来るわけない。母が選んだように、私もあの畑を選ぶ。いつかきっと山葵に合わせて美味しいかんぴょう料理を作ってみせるね」

柚木麻子『その手をにぎりたい』より