たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

蛸の桜煮『その手をにぎりたい』(4)

実際に飽食殺人みたいなプロットのミステリー、何度か読んだ気がする。

目についたやかんに水を入れコンロにかけると、急いで茶筒や急須を探す。料理好きの彼はよく台所に立ちパスタやピラフを作ってくれるものの、決して女を入れようとしない。

現れたのは柳の日本酒の瓶と籠に入った茶色の卵の山だった。
「卵酒ですか......」
生まれてこの方、口にしたことがない。ぬるぬるしていそうで気持ち悪い、という印象がある。
「近所の養鶏場で、今朝生まれたばかりの卵なんですよ」
「へえ......。わざわざ息子さんに飲ませるために......」
そういえば、広瀬は卵料理が好きだっけ———。広瀬の母にことわって、青子は卵に触れる。ざらりとした表面は普段手にするつるつるしたそれとは違い、まるでテラコッタのようだ。ひんやりした触り心地なのに、どこか温もりを感じさせる。
「そうだわ。せっかくだから、我が家の秘伝の卵酒、貴女に教えてもいいかしら?」
青子の戸惑いが伝わったのか、広瀬の母は頬を染め、口ごもる。
(中略)
卵を小鉢に割るとぬるりと白身と卵黄が流れだし、広瀬の母の指示通りに、青子は一心不乱に菜箸でかき混ぜる。透明と橙はそのままぐるぐると渦を巻き、混迷を極めていく。

青子は前髪を立ち上げたワンレンヘアを後ろに払うと、スプーンを手にとり、旺盛な食欲でデザートのティラミスを平らげる。濃厚なマスカルポーネクリームに苦いココア味を合わせると、ねっとりした甘さが増すようだ。日本でこの菓子を食べさせる店はまだとても少ない。

「卵酒、せっかく習ったんだから、作ってあげようか。けっこう簡単なの。それに体があたたまって、美味しかった。溶いた卵にお燗したお酒を少しずつ加えて、お砂糖と生姜で味付け。初めて飲むのになんだか懐かしい感じがしたなあ」
「いいよ。女に台所立たれるのって苦手だし」
「はいはい。でも、卵料理ってお母さんの味っていう気がする。大事に育てられたんだね」
「俺の話はもういいだろ。青子にとっての、お母さんの卵料理って?」
「うーん。お麩のドーナツかなあ」
広瀬は怪訝な表情を浮かべ、エスプレッソを飲み干す。(中略)
「作り方はよくわからないんだけど、大きなお麩に溶き卵をからめて、油で揚げてお砂糖をまぶすの。フレンチトーストみたいなドーナツみたいな味。祖母の田舎ではポピュラーなもので受け継いだんですって」
今思い出しただけで、口の中にじゅっと甘みが広がるようだ。幼い頃、大好きなおやつだった。よそのうちでは作らないと知った時は驚きとともに勝ち誇った気持ちになった。いつかもう一度食べてみたいが、作り方を聞く機会のないまま母を亡くしてしまった。
「あとはやっぱり、錦糸卵とかんぴょうのたっぷり入ったちらし寿司かなあ」
「甘そうだなあ」
「このティラミスにも卵黄が入ってるんじゃないかな。こっちでは贅沢でも、イタリアではきっとママの味なんだよね。私『すし静』の卵焼きを食べると、そんなあったかさを感じるな。香りの強いネタの締めで口にする優しい味にほっとする。あそこの卵焼きは、築地で買ったものじゃなく、ちゃんとお店で焼いているんだよね。ふんわりと甘くてスフレみたい」

皿の中のとろりとした明るいカスタード色を見ていたら、眠たいような気持ちになった。台所からスプーンを手に戻ってきた幸恵は、ベビーチェアに座る愛娘を座り直させながら、
「これがこの子にとっての初めての卵。もう7ヶ月だから。そろそろいい頃だと思って」
と神妙な顔つきで言った。青子は幸恵がスプーンで皿からひとすくいし、小さな唇に運ぶのをどきどきしながら見守る。
(中略)
「これ、どうやって作るの?」
「ゆで卵の卵黄をすりつぶして、お湯で伸ばしたもの。卵白はアレルギー反応が出るかもしれないから......」

背筋を伸ばし、いつものように握りを注文する。広瀬と食の好みは似ているから、欲しいネタを交互に注文し、同じものを食べればいい。やりいかに始まり、甘海老、みる貝、つぶ貝、金目鯛、トロと食べ進め、青子はついに今日の目当てを口にする。
「ギョク、おねがいします」
はい、と顎を引いた一ノ瀬さんが、綺麗に焦げ目のついた卵焼きをすっと切り分ける手もとを息を止めて見つめる。広瀬が口を開いた。
「ここの卵焼き、美味しいですよね。確か、お店で焼いているんですよね。なにか特別な作り方をされているんですか」
「普通の江戸前の卵焼きでございます。芝海老に鱧のすり身を加えてよく練り、砂糖を加えてすり混ぜます。さらに大和芋を入れて、ふんわりさせ、泡立てた卵白、みりん、醤油、最後に卵黄を少しずつ混ぜ、専用の焼き器で焼き上げます」
「へえ、卵黄と卵白は別々なんですね。ますますスフレみたい」
一ノ瀬さんの手の上で、6等分の切り目が入った卵焼きが小さな握りにふんわりと被さっている。馬の背に載せる鞍に見立て、鞍掛けと呼ばれているらしい。青子に続いて、広瀬も一ノ瀬さんから卵焼きを受け取る。口に運ぶと優しい甘さがふんわりと広がり、酢飯の酸味がいいアクセントになっている。どこまでも柔らかく表面は香ばしい卵焼きは、洗練されたフランス菓子のようでいて、両親に守られているような素朴な温もりも感じた。

「......お宅の蛸の桜煮が好きだと、よくこの季節になると申しておりました。いつもよくしていただいて......」

あの時は呑気に旬の戻り鰹を頬張っていた。自分がこの上なく酷薄な俗物に思え、鰹の鉄の味は苦みに変わった。

「(中略)お医者様に止められていたのに、あの通りの健啖家で、しょっちゅうウニだのイクラだの、パクパク食べていたじゃないの。冬のイクラは口で暴れるところがいい、なんて言って。あれ、見ていてどうかと思ったな」

「お通しに蛸の桜煮をいただける?」
彼の目が大きく開かれる。
「真蛸の美味しいうちに、来なきゃと思ったの。私、てっきり蛸って夏のものとばかり思ってた。冬が旬だなんて、澤見さんに出会って初めて知った。澤見さんが座ってた席ってここですよね。私、これからはいつもここに座ることにする」
(中略)
やがて、青子の前にうっすらと紅色に染まった蛸の煮物が置かれた。
「冬の真蛸は、ミルクのようなコクがあると言われますが、僕はクリの花に似ていると思っています」
ほんのりと紅色に染まった蛸は、歯をたてるとさくりと切れる。なんという柔らかさ。さわやかな甘みが広がった。
「やわらかいなあ......。とろけるみたい。この色味と風味は......、番茶かな」
「さすがは本木様です。小豆で炊くのが一般的ですが、甘みが強すぎるのがどうも......」
しばらく言葉を濁した後で、一ノ瀬さんはふっと視線を泳がせた。
「澤見様はお元気に見えたけれど、随分前から硬いものは召し上がれなくなっていらしたんです。この甘い香りを残したままの柔らかい桜煮にするのに、随分工夫しました」

「じゃあ、この桜煮も握ってもらおうかな」
(中略)
一ノ瀬さんがいつものように鮨の載った左手を差し出した。
「蛸の桜煮の握りです」

柚木麻子『その手をにぎりたい』より