2015年に買って積読になっていたのを英国旅行を機にようやく読む。1980年代半ばの体験が書かれているが、ロンドン周辺の状況としては40年経ったいまも変わっていない点がたくさんある。(直接本書とは関係ないが、陛下の『テムズとともに』に出てくる店はほぼ今も営業している、とオックスフォード在住者が教えてくれた)
嬉しいことに、『十五の夏』と同じく食べたものについても事細かに書いてあるが、スマホで写真1枚撮ればとりあえず記録できる今とは違う。せっせと日記につけていたということなのだろう。少なくとも食べるのが好きでなくてはできない。すばらしい文化誌。
ところで、本書を読むと、佐藤氏が安倍氏のロシア外交を評価していたのがますます意味不明である。
「明日、どこに行くんですか」と私が尋ねると、二等書記官は「グルジア・レストランだよ。なかなかおいしい」と答え、「それでは、これから『ナツィオナーリ』でメシを食おう」と言った。
ホテル「ナツィオーリ」はかつてレーニンが住み、そこからクレムリンに通っていたこともある「赤の広場」近くの有名なホテルだ。
(中略)
「ルーブルでは生活必需品以外の商品を買うことができない。それだからモスクワ市民はルーブルを余らせている。ここのような高級レストランでも、場末の二流レストランでも値段は1割くらいしか変わらない。市中の商店ではキャビア、イクラ、蟹はまったく出回っていない。闇市場で法外な値段で買うしかない。ただし、高級レストランならば、国定価格でそういう高級食品を食べることができる。それから、ゴルバチョフの節酒令によって、市内でウオトカを買うことが難しくなっている。ここでならばウオトカもシャンペン(スパークリング・ワイン)もいくらでも手に入る。もちろん国定価格なので安い」
(中略)
よく糊がきいた白いテーブルクロスの上にキャビア、イクラ、ハム、サラミソーセージ、ローストビーフ、チーズ、スモークサーモン、チョウザメの薫製、ポテトサラダ、蟹、生のキュウリとトマトが並べられている。パン皿には黒パンと白パンが載っている。社会主義国だから食材が貧弱かと思っていたが、どうもそうではないようだ。
「これが冷たい前菜だ。前菜というけれど、ロシア料理ではこれがメインのようなものだ。これでも通常の量の3分の2にしてもらっている。一般のロシア人はレストランで食事をすることが滅多にないので、2〜3時間かけて、ウオトカを飲みながら冷たい前菜を食べる。今日は、ごく標準的な前菜だけを頼んでおいた。この後、温かい前菜が出る。ちなみにロシアでは夕食でスープを飲むことはない。だから、ボルシチはない。その後、メインになる。このレストランはフィレステーキがおいしい。それでいいか」と二等書記官が尋ねるので、私たちは「お任せします」と答えた。
(中略)
「ロシアのレストランにビールはない。日本からの出張者や国会議員でビール党がやってくるときは、僕たちの方でビールを用意して、レストランに頼んで冷やしておいてもらう。もっともソ連製のシャンペンは値段も安く、おいしい。飲み物はまずシャンペンから始めるのがいい」
そう言って、シャンペンを2本頼んだ。
(中略)
先輩の話に耳を傾けながら、私はどの前菜をとろうか考えていた。まず、ハムをとってみた。少し塩味が強いがおいしい。次にサラミソーセージに手をつけた。直径5センチくらいの少し赤みがかった焦げ茶色のサラミソーセージに、霜降り状の脂が入っている。歯ごたえがあってうまい。ハムもサラミもビールにあうだろう。ビールがないのが残念だ。
二等書記官が、「キャビアを食べてみないか。食べ方を教えてやる」と言った。
「白パン、黒パンのどちらでもいいが、パンの表面に薄くバターを塗る。ロシアのバターは無塩バターだから、キャビアの味が壊れない。僕は黒パンの方が好きだ」
そう言って、二等書記官は黒パンに薄くバターを塗って、その上にスプーンでキャビアを山盛りにした。
私も真似をしてみた。キャビアは黒というよりも深緑色をしている。舌の上でキャビアの薄皮が自然にとけて、黒パンの酸味とよくあう。二等書記官がキャビアについて説明を始めた。
「ソ連製のキャビアは3種類ある。このキャビアは少し緑がかっている、アセトリーナという種類でビンの蓋が黄色のキャビアだ。値段でいうと真ん中だ。いちばん高いのがベルーガで、青色の蓋。いちばん安いのがセブリューガで赤色の蓋だ。ベルーガとセブリューガは灰色をしている。味も似ている。ただし、ベルーガの方が粒がずっと大きい。館務につくと便宜供与がある。そのときキャビアに関する知識が必要になるが、今僕が言ったことでだいたい対応できる。外交官は、そう深くなくてもいいので、何事についても幅広い知識をもっておく必要がある」
(中略)
マヨネーズであえたポテトサラダを食べてみると、ちょっとマヨネーズに癖がある。私が「ちょっと癖がありますね」と言うと、二等書記官はこう説明した。
「マヨネーズに使っているのがサラダ油ではなく、ひまわり油だからだ」
「ひまわり油ですか」
「そうだ。ロシア人はひまわり油をよく使う。食用のひまわりを大量に栽培しているんだ」
「ひまわりを食べるのですか」
「ひまわりの種を炒って、中の白い実を食べる。これがなかなかおいしい」
私たち研修生3人は顔を見合わせた。二等書記官は続ける。
「このサラダは“スタリチナヤ”と言う。“首都の”という意味だ。ちなみにウオトカでもっとも標準的なブランドも“スタリチナヤ”だ。日本語の語感で言うと、と都会風の、洗練されたという意味だ」
「どうしてこのサラダが都会風ということになるのですか」と私が尋ねた。
二等書記官が少し考えてから答えた。
「いい質問だ。僕もそのことについては考えてみたことがなかった。恐らく、鶏肉を使っているからだろう」
確かにこのサラダには、手で細かく千切った鶏肉とさいの目に切ったジャガイモとにんじん、それにグリーンピースが入っている。
「ソ連でいちばん安い肉が牛だ。その次が豚で、鶏がいちばん高い。鶏肉を使った料理には高級感がある。だから”首都のサラダ”と言うのだと思う」
この調子で、二等書記官は、チョウザメの燻製には生のものと湯通ししたものがあるとか、サラミソーセージの種類などについても詳しく説明してくれた。そして、私たちに「少しウオトカを飲むか」と尋ねた。
(中略)
「スタリチナヤとプシェニチナヤを1本ずつとった。安いウオトカはジャガイモを原料とするが、スタリチナヤは高級ウオトカなので小麦を原料にしている。それから、プシェニチナヤという高級ウオトカがある。ロシア語で〝小麦の”という意味だ。スタリチナヤよりも切れ味がいい。僕はウオトカの中ではプシェニチナヤがいちばん好きだ」
ウエイターはすぐに赤いラベルのスタリチナヤと黄色いラベルのプシェニチナヤをもってきた。日本のロシア料理店では、通常、ウオトカは冷凍庫で冷やされている。ここのウオトカは常温だ。
「ウオトカは冷やさないのですか」と質問すると、「常温で飲むのが普通だ。冷やして飲む人もいるが、そうするとどうしても飲み過ぎてしまう。それから、ロシアではウオトカをついでもらうときにショットグラスを手にとって持ち上げることをしない。テーブルの上に置いておくのがマナーだ」と二等書記官は言った。
(中略)
グラスに入っているミネラルウォーターを飲んだ。炭酸が入っていて、少し塩の味がする。
「これはナルザンというグルジアのミネラルウォーターだ。ナルザンというのは有名な鉱泉の名前で、クレムリンの公式晩餐会でもこの水が用いられる」
「炭酸が入っていないミネラルウォーターはないのですか」と研修生の1人が尋ねた。
「ない。いちばん高いミネラルウォーターはボルジョミといって、これもグルジアの有名な鉱泉の名前からとられている。ただし、ミネラルが多く入っているので、昆布茶のような味がする」
「昆布茶ですか」
「そうだ。だから、日本人を接待するときはナルザンを使うのが無難だ。モスコーフスカヤというモスクワの井戸水に炭酸を入れたミネラルウォーターもあるが、あまりおいしくない」
ロシア料理の前菜はウオトカとよくあう。ウオトカをショットグラスで4〜5杯飲んだら、だいぶ酔いが回ってきた。7時になったので、1階のレストランで朝食をとることにした。ひどく混んでいるので、レストランの横にあるカフェでコーヒーとオープンサンドウィッチを2つ頼んだ。
(中略)
パンは、見た目は日本のフランスパンに似ている。ただし、小麦がぎっしりつまっていてかなりボリュームがある。サラミは胡椒がよく効いていておいしい。脂が舌でとけ、なかなかいける。昨晩のレストランでも感じたが、ロシアのハムやサラミソーセージは日本製よりもおいしい。
(中略)
「朝食をとらなかったのか」と尋ねると、2人はホテルの周囲を散歩して、キエフ駅のそばの屋台でコーヒーを飲んだという。コーヒーはインスタントだったそうだ。私は同期2人の行動力に驚いた。
佐藤優著『紳士協定―私のイギリス物語―』より