たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

フィンランドで食べるたのしみ『わたしのマトカ』

あの頃の香港は、時給450円の映画館アルバイトでも、思うさま飲み食い買い、遊びわれるくらいふところが深かった。500円もあれば、お昼の飲茶を降参するくらい食べられる。ワゴンで運ばれてくる点心をひるむことなく選べる幸福!
朝のお粥から始まって、酒家で屋台で夜店で露天で、街の中で口にできるものはすべて口にした。一食も無駄にしない心意気だった。最終日には、もう中華味はいやだ、という脱落者も出たが、わたしは最後まで、負けることなく食べ続けた。

わたしの父親は、戦後日本の高度成長経済をささえた偉大な1サラリーマンである。偉大な食通だったかどうかは疑わしいが、石油を商って日本全国を渡り歩き、食べ歩き、そして、ゆくさきざきから地元の名産、特産の類をおみやげに持ち帰った。
今でも、わたしが地方などで美味しいと聞く店を探し求めてたどりつくと、時々「昔、おとうささまがよくお見えになりました」なんて言われることがある。
そんな父親の仕込みで、わたしは幼いころから山海の珍味を好む子どもだった。誕生日にはケーキのかわりに、なまこ酢が祝宴に並び、この日ばかりはこのわたを思いきり食べさせてもらえた。

機内誌をめくっていると、早速食べ物の情報が手に入った。この時期フィンランドの市場にはさやえんどうがたくさん並ぶので、それを生でつまみながら町を歩きなさい、と書いてある。生のさやえんどう、未体験の領域である。
旅行の準備で、築地のお茶屋さんにおいしい日本茶を仕入れに行った時も、店員さんがが、今ごろのヘルシンキならば市場のベリー類やいちごが絶品です、と教えてくれた。特にいちごは忘れず食べなくてはいけません、と強く念を押されたものだから、わたしの心は、飛行機より早くヘルシンキの市場に飛んでいた。
機内食は、なによりパンがおいしかった。穀物のかたまりの味がする。わたしがおかわりのパンをせしめて、こっそりナプキンで包むのを見たのだろう。背の高い妙齢の客室乗務員が、
「もっと良いものがありますよ」
と、またちがう種類のパンのかごを運んでくる。そしてさも嬉しそうに、
「これがフィンランドのおふくろの味です」
と言ってわたしの前に差し出した。
シナモンロール。映画の中でも大活躍をするし、もちろんヘルシンキの町の中でも大大活躍をしていたこのパンに、わたしはこの時、はじめて出会った。
重要な共演者との早々の出会いに感動しながら、シナモンロールを味わっていると、例の客室乗務員がまた嬉しそうな様子で近寄ってくる。フィンランドの味に興味津々の日本人をまた喜ばせようというのか、次に差し出されたのは、黒と白のチェッカー柄の小さな箱だった。
トランプ? と一瞬思ったが、ふるとからからと音がする。開けてみると、中には小指のつめ大の、世にも真っ黒なかたまりが入っていた。飴だと推察される。とても食べものと思えないような見た目の代物だったが、わたしは迷わず口に放り込んだ。
味蕾が脳に何味、と伝えるより前に、わたしの体に鳥肌が立っていた。しょっぱい。飴のはずだがしょっぱい。まちがえて箱に入っていたゴムのかけらをなめたのだろうか。くじけずになめているとハーブの味もしてくる。これは、たぶん甘草の香りだろう。
舞台でのどを嗄らさないためにあらゆるのど飴を試しているので、そのての成分はすぐに嗅ぎ分けることができる。アジア各地で公演をした時には、ずいぶんその国々ののど飴にお世話になった。度肝を抜かれる味のものもたくさんあったが、どれも漢方由来の、アジア人ならばかろうじて想像できる範囲内の味だった。
しかし、今回のは想像を絶していた。わたしの中のコンピューターが一時混乱し、これまでの全データをもとに必死で検索をしているのがわかる。脳が、箱の柄とおなじ白黒の市松模様になる。あまりのことに、口に入れたものを吐き出すべきか、飲みこむべきか判断する能力さえもなくしていた。
タイヤとかゴムのホースに塩と砂糖をまぶしてかじったら、もしかしたらこんな味がするのかもしれない。未だかつて味わったことのないまずさだった。
(中略)
「これは、何のために存在するものなのですか?」と聞きたかったが、失礼なので、
「これはのどに良い飴ですか?」と訊ねた。
その人は、
「のどに良い? そういう話は、あたくし聞いたことございません。これはサルミアッキと申しまして、フィンランド人が大好きなお菓子でございます。塩が入っているので、血圧の高い方や妊娠してる方は召しあがらないほうがよろしいでしょう」
というようなことを、それはそれは嬉しそうに英語で話した。
プッラ、つまりシナモンロールと、サルミアッキ。日本で言うなら、おにぎりと納豆に相当するだろうか。行きの飛行機の中ですでにわたしは、フィンランドの“魂の味”に出会っていた。
翌日から、わたしの隣にシナモンロールとサルミアッキがある生活が始まった。
どこのカフェ、こちらで言うところのカハビラにも、シナモンロールはコーヒーの横で王妃のように君臨していたし、フィンランドのコンビニ、キオスキではお菓子の棚の多くの部分を、サルミアッキの不気味な黒が占めていた。
聞いたところでは、サルミアッキとは、のど飴通のわたしの見立てどおり、甘草などのハーブが原材料で、それを塩で漬けた物で作るのだそうだ。その塩が、箱の横の成分表にも書いてある塩化アンモニウムとはなんだ。調べたら、電池の材料などと書いてある。
電池の材料を使って、タイヤのゴムみたいな味のお菓子を作る人たち……。
わたしはその実態を確かめるために、キオスキでグミ状や棒状の各種サルミアッキ製品を買い集めて、こっそり撮影現場のお茶場に置いてみた。
横目で見ていると、フィンランド人スタッフたちは、どんな菓子類よりまず謎のグミにたかっている。目をはなすと、すぐに袋が空になっている。
それを見てからというもの、わたしのサルミアッキ克服の修行は始まった。お茶場に置く実験用のお菓子を買っては、まず自分でもためした。慣れてきたところで、サルミアッキのアイスクリームにいどんでみた。どす黒い色のアイスクリームを食べるには勇気がいったが、トッピングされているカラメルの助けで、なんとか完食した。
こうして少しずつ難易度を高めてゆき、最初の週末には、わたしはサルミアッキ味の強いお酒に挑んでいた。

おぼえたての言葉を得意げに使う日本人に、おばさんはハハと笑ってバケツに山盛りのさやえんどうを袋に入れてくれた。おまけにもうひとつかみ入れてくれた。初フィンランド語の効果はてきめん。ついでに、この金色のきのこの調理法を聞いてみた。できそうだったら、また「サーンコ・タシタ・リタラ」だ。
おばさんは、最初ぶつぎれの英語で一生懸命説明をしてくれていたが、終わりのほうは早口のフィンランド語になってしまった。身ぶりと英語の単語から推測すると、どうやらバターでカラカラにいためてたまねぎと一緒にソースにする、というようなことらしい。

市場中のお店を偵察したのちまた、「サーンコ・タシタ・リタラ」。一番安くておいしそうないちごを1リットル買った。
ロケバスに戻って、早速“さやえんどうを生で食べる”に挑戦してみた。でも、食べ方がよくわからない。さやは、スナップえんどうなどよりぐんと硬い。東京でなら、さやつきグリーンピースとして売られているものに近い。念のため外殻からかじってみたが、歯が立たないのでさやを割ってみる。つぶらな豆が整列している。
ほの甘い。思ったほど青くさくない。ゆでて食べるより豆の味が濃い。おいしい。いや、けっこうおいしい。甘栗みたいに、食べだしたらとまらなくなり、ぱきぱきさやを割って、ぱくぱく食べた。
(中略)
撮影でお邪魔したお宅でも、家主の女性が「おやつにどうぞ」とにんじんを剥いてくれた。もちろん塩もマヨネーズもついてこない。「柿をどうぞ」みたいな気持ちなのだろう。果物と野菜の境目があいまいになってくる。彼女は庭に生える野生のハーブでおいしいお茶をいれてくれたりもしたので、「このにんじんもきっとこの庭でできたんだわ!」とみんなでありがたくいただいた。あとで冷蔵庫を見たら、思いきりスーパーの袋に入っていた。
いっぽう日本でなら、果物界のトップアイドル的地位にあるいちごも、ここでは十把ひとからげだった。なにしろ1リットルのバケツで買うのだ。大きさも色もまちまちだし、熟れすぎてつぶれたものも混じってくる。日本のみたいにあんなに大きくて、一粒いくらの気高さで箱に並んでいるようないちごは見たことがなかった。
粒が小さいので一粒ずつ食べるのももどかしい。ホテルに戻ってから、わたしは1リットルのいちごをスプーンですくってざくざく食べた。口中がいちごでいっぱいになって、とても幸せだった。
よその国で野菜や果物を食べると、野生の味がする。このいちごだって畑の出身というよりは、野や山の出のようだ。日本で感じるおいしさとは、一味も二味もちがう。これが本来の野菜や果物の味なのよ、と言う人もいるが、どうなのだろう。ほんとだろうと嘘だろうと、わたしはどちらの味も大好きだ。
フィンランドのいちごは、フィンランド語で「ヒューヴァ」というのがふさわしい味だった。日本語の「おいしい」とはまた一味違う。
それにしても、ノキアのセールスマンは、わたしがフィンランドで野菜を買うとは思わなかったのだろうか。英語の通じるデパートでイッタラの食器を買うより、市場で野菜を買う機会のほうがはるかに多いのに。
人は、まず自分に必要な言葉から覚える。

英語のガイドブックには、フィンランド料理はスウェーデンやロシアの料理の流れを汲むもので、特に固有の料理方法はない、と書いてある。フィンランドの人にそう言うと、「素材が良いから、そんなにあれこれ料理をしなくてもいいのさ」とのどかにこたえる。わたしが日本人とわかると、「僕たちは魚を生で食べる仲間だ!」と握手を求められたりもした。確かにスモークサーモンやバルト海にしんの酢漬けなどは、生と言えば生だ。
わたしにとってのフィンランド料理は、出かける前は、鮭、しか思い浮かばなかったけれど、帰ってきてからは、いも、のことしか思い出せない。とにかく、一生分のじゃがいもを食べた気持ちがする。
どこで出されたお皿にも必ず、いろんな形に変装したじゃがいもがのっかってきた。主にマッシュポテトだが、それもおたまですくってお皿にたたきつけたみたいなものから、オムライスみたいにきれいに盛りつけられたもの、卵とバターで表面を焼いたもの、わざわざうんこ状に渦を巻いて盛られたものなど、いろんなバリエーションがあった。だが、どれも量が多くて食べ方はおなじ。サーモンやお肉やレバーなどのつけあわせ、というより、日本人ならご飯の感覚で、それらのソースとからめていただく。何でもかんでもこのマッシュポテトまみれという味が、わたしが思う最もフィンランドな味である。
鮭もあらゆるところに出没していた。有名なのはサーモンスープ。牛乳仕立てでフィンランドの代表的な香草ディルが入っている。クリーム・チャウダーの鮭版のような味である。寿司のねたも、やはりサーモンがおいしかった。噂ではフィンランドスタイル寿司なるものがあって、小ぶりの新じゃがに、サーモンやにしんの刺身をのせて食べるのだそうだ。
海だの湖だのがたくさんある国だから、もちろん鮭以外の魚もいろいろあった。だけど、魚を食べるには少し骨が折れた。フィンランド語はもちろん、英語でも、魚の名前などてんでわからないから、レストランに出かけるときは必ず電子辞書を携帯した。おかげでタラ、ヒメマス、カワカマス、スズキ、アンコウなど電子辞書が訳した魚を食べた。本当かどうかは知らない。
わからないままだった魚もたくさんあった。タラコでもイクラでもない、とってもおいしい魚の卵をチーズのディップなどと一緒によく食べたのだが、未だに誰の子なのかわからない。
ザリガニのシーズンだったので、デパートにはザリガニを剥く専用ナイフやら、専用の絵入りナプキンや、前かけなどのザリガニキットがたくさん並んでいた。7月の終わりに漁が解禁されると、こちらの人たちは、大はしゃぎでこの泥の中に棲む生き物を食べるらしい。ゆでてまっ赤になったザリガニをテーブルのまん中に盛りあげ、おそろいの前かけをして、専用のザリガニナイフを使って割って食べるのだ。ザリガニキット売り場にそんな写真が飾られていた。わたしが毎秋恒例の上海蟹宴会を楽しみにするのとおなじように、フィンランドの人たちは、夏のこのイベントを待ち焦がれるのだろう。
毎週末、島にあるザリガニレストランに予約を試みたがいつも満杯。残念ながらフィンランド的ザリガニパーティは体験できなかったが、短い夏をなんとしてもお盛り上げようとするフィンランドの人の意気込みを、じゅうぶんに思い知らされた。
ザリガニもそうだが、トナカイや雷鳥などのラップランド系料理もそれなりに高価だ。
物価の高いヘルシンキでは、夕食を外で食べようと思うとかなりのお金がかかった。英語のガイドブックにも、レストランのディナーはとても高いから、効率よくフィンランドのご飯を食べようと思ったら、平日のランチビュッフェを利用なさい、10ユーロ以内で食べられます。でも、そういうレストランは5時には閉まりますよ、と書いてある。
おっしゃるとおりだった。ヘルシンキでは、はりこんで高く出せばそれなりにおいしい食事に出会えるが、安くて良い夜ごはんを探すのは、ちょっとした苦労だった。

主菜とサラダ、もちろん大量のマッシュポテト。そしていろんな種類のライ麦パンと日本人用のライス、それからデザートにいたるまで、大きなアルミホイルのバットに並んでやってくる。日本のようにロケ弁当ではなくて、大きな紙皿に好きなものを好きなだけ取ることができる。屋外のロケの時などは、ちょっとしたアウトドアパーティのようだった。
主菜はベジタリアン用もあるので、メニューによっては今日は草食、明日は肉食と好きなほうを選ぶことができた。ときたま無法者が両方のおかずを取ってしまうので、ケイタリングのアイノはいつも監視に忙しかった。彼女が、あとの人の分が足りなくなっちゃうから、どちらかひとつにしてください! と叫ぶのを聞きながら、目を盗んでわたしはよく雑食をした。
わたしたちは、毎日かなり濃いフィンランド料理に恵まれていたわけである。「スオミ食堂」の料理は、いわゆるフィンランドのおふくろの味だ。ミートボールもソーセージも、魚のきのこソースがけも、野菜のクレープも、みんなお昼のケイタリングでいただいた。
忘れられないのはトナカイ肉のリンゴベリーソース。いつものようにフィンランド人スタッフとランチの列に並んでいると、ある日見慣れないひと品があった。つぶつぶの入った鮮やかな血の色をしたそれを、みんなどろろっとお肉にかけている。
「ちょっと! その赤いものは何!?」
わたしが叫ぶと、スタッフたちは一斉に、
「リングンベルィ、リングンベルィ」
と言ってそれを指さした。ベリーの一種? その不気味なソースを指につけて恐る恐る味を見るわたしに、今まで声すら聞いたことなかった無口なスタッフまでが話しかけてきた。
「これ、肉にかけるとうまいよ」「フィンランド人みんなこうやって食べる」「もっとたくさんかけなきゃ!」
フィンランド人の何かのツボを押してしまったのだろう、みんなぶっきらぼうながら、次々とひと言コメントを言いに来る。
トナカイ肉は、細かくスライスしてあったが、しっかりけものの味がしておいしかった。こういうものは少し匂いがあるくらいのほうがわたしは好きだ。そしてリンゴンベリー、こけもものことだろうか、そのソースはむき出しな酸味が野生の匂いに良くつりあった。フィンランドの森をまるごといただいているようだ。メイクの宮崎さんは、ひと口食べるなり「無理!」と叫んで皿を置いた。でもわたしにはかなりお気に入りの、もう一度食べたいフィンランドの味、になった。
後で知ったのだが、お肉料理やソーセージにベリーのソースをかけるのは、フィンランド料理の一大特長らしい。

アンコールワットの国有地の中に違法で住む人たちの村に行き、おも湯みたいな子どもたちの給食をごちそうになった。

7時をまわると、東向きの2階の広いベランダにわたしの朝食が用意される。この時宿泊者はわたしだけだったから、この時間のこの日向は完全にわたしだけのものだった。日向も日向のベランダのテーブルに着くと、住み込みで働いているもうひとり、実直なお兄さん青年が、庭で炭をおこしてパンをあぶりはじめる。
国の一部がかつてフランス領だったせいか、カンボジアのフランスパンは絶品だった。フランスでフランスパンを食べたことはないけれど、わたしは、おかあさんの家の炭であぶったパンが世界一のフランスパンだと思っている。
まっ正面から太陽とさしむかいで朝食をとる。あまりに眩しいので、わたしはいつもサングラスをかけて食事をした。超直射日光でも、朝の光はそれほど温度が高くない。カンボジアの人たちも、だからがまんできないくらい太陽が熱くなる前に働こうと早起きをするのだろう。目の前のやしの木には、やし酒の原料をとるために、もうとなりの家のじさんが登っている。

ヘルシンキでも、撮影中、日本人の皆さんにそれぞれアンケートをした。
「日本に帰ってまっ先に食べたいものは何ですか?」
だんとつで、蕎麦が1位だった。わたしは、蕎麦と大根おろしが同率一位という感じ。海外で暮らす日本の人に聞いても、旅先で知り合った人たちと日本食を懐かしむ話になっても、蕎麦は必ず話題にのぼる。
帰国後、念願かなって家で大根おろしばかり食べていたら、5日も経たないうちに2キロ体重がへった。食べる量は変わらないから、きっとヘルシンキでは2キロ分のバターとじゃがいもを食べたのだろう。ヘルシンキのデパートには、小さな大根らしきものは売っていたが、とてもすりおろしたいと思える代物ではなかった。白っぽい何かの根っこ、みたいなものだった。
わたしの家の毎日の食事は、たいてい夢に描いたとおりだ。大根とねぎ、そしてあぶらげはきらしたことがない。それに納豆やたまご、おみおつけに入れる野菜のひとつがあれば一汁一菜ができあがる。外でごついお料理を食べる機会が多いから、家の中ではおとなしくしていましょう、という心構えである。そして歳とともに、それがもっとも好みの食べものとなった。

世界各地の中華街にはほんとうにお世話になっている。ヘルシンキには中華街はないが、ハカニエミの市場のそばに2軒ほどアジア系の食材店があるという。わたしはそれだけの情報を頼りにハカニエミに向かい、市場の裏手を歩きに歩いて、とうとう赤い看板の漢字のお店を発見したのだった。
アジアの市場のややこしい乾物の匂いと、見慣れた食材の数々。紙パックのとうふを手に入れたら、ピータンをのせたくなった。
ピータン、ピータンとつぶやきながら店中を探しまわる。

またさらに店内を巡っていると、店のはしに、手打ちの蕎麦の店で麺打ちを見せるようにしつらえたガラス張りのスペースみたいな一角があって、三角巾をしたおばさんが作業をしていた。ぱしゅっぱしゅっという音をさせて、何かを放送している。近づくとその部屋からは、たまらなく懐かしいにおいがする。
韮。
にらの束を細かく分けて、袋詰めにしていたのだった。わたしはティファニーのウィンドウをのぞきこむヘップバーンのような気分で、ガラス越しににらを眺めた。何束かまとめたのを持っておばさんが部屋から出てきたのであとをつけ、おばさんがそれを冷蔵庫に投げ込む也、早速ひと束抜き取った。
市場でも、北欧最大のデパート、ストックマンでも、にらは見かけなかった。こちらのお料理にも使われている形跡はない。とうふやピータンのような加工品でないぶん、わたしにはこちらのほうが貴重品のように思えた。

ニューヨークの日本スーパーでかぶを見つけた時も、同じように嬉しかった。これをあぶらげと炊いたらどんなにうまかろうとのどを鳴らしたが、よく見たら日本の産地のテープがはってあって、かしゅかしゅに乾燥している。なんらかの方法で日本から運んだものらしい。それでもがまんできずに、貝柱の缶詰と煮て食べた。よけい、正しいかぶの味が恋しくなった。

蕎麦ほど単純で、しかもやっかいな食べ物はない。粉と水だけでできていて、つゆにつけるだけの超シンプルな食べ物のくせに、これだけ蘊蓄が語られ、いろんな楽しみ方をされるものもめずらしい。香り、歯ごたえ、さらにのど越し。粉とつなぎの具合、切り方、茹で方、色、長さ。つゆの甘辛、蕎麦との相性。それに、薬味の入れ方だの、盛り方だの、蕎麦猪口や湯桶の趣味だの、お店の風情だの、たぐり方だのすすり方だの、なんだのかんだの。蕎麦湯を飲み終わるまでに、その蕎麦の良し悪しを決めるあらゆる難関が潜んでいる。
わたしはもっとのほほんとした蕎麦素人だから、そんなごたくはどうでも良い。気持ちよく音を立てて食べられればそれで良い。でも1週間に1度は立ち食いでもいいから蕎麦屋で蕎麦を食べたいと思ってしまう。ちょっとした中毒である。

ハカニエミのスーパーから戻ると、わたしは早速、腕まくりをして夕食の支度をはじめた。
東京より持参した和風だしの素を煮立て、厚揚げを切って入れる。持参した乾燥わかめを散らし、にらをさっと煮て、たまごでとじる。
ブロッコリをゆがいて、持参した練りごまと炒りごまに、前記のだし汁と持参した練りごまと炒りごまに、前記のだし汁と持参した練りわさびをくわえて和える。
持参したインスタント生味噌汁の素に、ポロねぎを刻んだのを添え、熱湯を注ぐ。
大量に持参したレンジでちんのごはんをあたためる。
自我持参、そしてヘルシンキの中華スーパー万歳! のおばんざいができあがった。

はじめての汽車の旅のチケットを買う。7時38分発、ペンドリーノ号。トゥルクには9時半につく。プラットホームがたくさん並んでいて、ヨーロッパの映画そのまんまだ。低気圧で少し落ちた気分が盛り上がってくる。朝食のチーズサンドとコーヒーを買って、列車に乗りこんだ。

おじさんとさし向かいで、素朴なミートボールとマッシュポテトの夕食をたいらげ、湖を見渡すテラスに移動して、コーヒーをいただいている時だった。おじさんが、森でとれたブルーベリーでつくった、これまた素朴なケーキを持ってやってきた。

わたしは吸い込まれるようにそこに入り、1階のバーで黒ビールを飲んだ。黒い川をながめていたら、たまらなく黒ビールを飲みたくなったのだ。タンベレの水とおなじ色のビールを飲んでいると、夕陽が最期のひと息みたいに光の勢いを強めた。美しい夕陽だった。これがフィンランド最後の夕暮れになるだろう。明日のこの時間には、飛行機の上にいるはずだ。ひと月のヘルシンキ、そしてたった1泊のひとり旅。ここにいたってまた、ずいぶんといろんなもののしっぽをつかんでしまった。森と湖、田舎の暮らし、イスケルマ、ムーミン。わたしはまだフィンランドのしっぽの先にふれたばかりだ。旅はきっとこれからも続くのだ。
缶ビールと名物の黒ソーセージを手に入れて、ヘルシンキ行きの列車に乗った。すでに暮れて真っ暗な窓の外をながめながら、わたしはやたらと長い真っ黒な豚の血のソーセージを、手づかみでむしゃむしゃと食べた。

フィンランドに発つ前も大忙しだった。1日前まで舞台の公演をしていた。大阪で千秋楽を終え、せめて串カツだけは食べさせて、と梅田の地下で30分だけ打ち上げをして飛んで帰った。

デザートまでついているケイタリングをゆったりといただいて、ミルクをいっぱい入れたコーヒーを飲む。

ヘルシンキでは、わたしは毎日のようにすずめと朝食をともにしていた。
仕事に出かける前に自分で和朝食をこさえる時以外は、ホテルの向かいのカハビラで、キッシュや、サンドイッチをつまむのがわたしの日課だった。

片桐はいり著『わたしのマトカ』より