たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

脂がのっていない『かもめ食堂』

映画『かもめ食堂』はふとしたときに見返したくなることがあって、配信アクセスを購入している。
日本では、家具屋のモデルルームで流しっぱなしにされているのを見かけて、借りなおしたりしたものだ。
(いまだにレンタルDVDが生きている日本は特殊だよね)

が、この原作というかノベライズはそれほどお腹のすかない作品。群ようこ氏って、食べ物のことを書くのが好きな人だったように思っていたけど、おにぎりに熱弁をふるっているわりには、たとえば林真理子氏あたりと比べると食べ物愛が薄いように見える。

そして、↓の箇所を読んで、ちょっとさみしくなった。お店はつぶれなくても、毎日来ているトンミくんがお店に顔を見せなくなる日はいつかくるのだ。マサコさんが本当に帰国する日も...。人は変わってく、という達観の会話が映画ではありましたね。
そうそう、大河の『新選組!』で刀の時代がごろっと変わってさんざん組の人間が死んだあとで、勇の故郷の初恋のひとが何も気づかないかのように「そうか、みんな元気なんだ(変わりないんだ、だったかも)」と言うシーンがあって...。

(みんな元気でよかった)
と、サチエは、市場のおばさんに勧められた、ノッコネン(イラクサ)とブルーベリーを買って、店に向った。待ちかまえるトンミくんと、無料コーヒーも全く変わりがない。
(中略)
「熱もないし、疲れが溜まっただけだと思いますよ。このノッコネンでスープを作ると、元気になるんですって」

遠足の日、お弁当を作らなければと起きたサチエは、台所で物音がしているのに気がついた。どうしたのかと行ってみると、ふだんは瓦を割ってみせたり、弟子たちを投げている父が、その手でおにぎりを作っていた。
「お父さん」
声をかけると、彼はびっくりしたように振り返り、
「いつも自分で作って自分で食べているんだろう。おにぎりは人に作ってもらったものを食べるのがいちばんうまいんだ」
大きな鮭、昆布、おかかのおにぎりを見せた。他には卵焼きも鶏の唐揚げも何もない。サチエはそれを遠足に持っていって食べた。他の子はお母さんが作ってくれた、華やかな色合いのお弁当だったが、父が作ってくれたシンプルなおにぎりは、不格好だったけれども、サチエにとってはとてもおいしかった。それから父は、中学校の3年間、遠足と運動の日のお弁当だけは作ってくれたが、それはいつもおにぎりだった。

母が漬けていた糠味噌漬けもひきついだはいいが、どんどん味が悪くなっていって、あせった時期もあった。それでも試行錯誤して糠床に昆布を足したり、ときには魚の頭もいれたりして、何とか元に戻した。
「私、おいしい御飯とお新香とお味噌汁があれば、何もいらないな」

翌朝、目が覚めると、台所で人の気配がした。いつかこんなことがあったと思いながら起きると、父がおにぎりを作ってくれていた。
「持って行け。人生すべて修行だ」
父は自分にいい聞かせるようにそういって、おにぎりの包みを両手でサチエに突き出した。
「はい。行ってきます」

「かもめ食堂」のメニューは、ソフトドリンク、フィンランドの軽食。煮物、焼き物などの日本食、夜はアルコールも出す。味噌汁、そしてサチエの一押しであるおにぎりが、おかか、鮭、昆布、梅干しと揃っている。しかし客の注文はほとんど、ソフトドリンクとフィンランド料理ばかりだった。

自称日本通のトンミくんが、珍しく自腹を切っておにぎりを注文したことがあった。おかかと鮭の2個セットだったが、鮭はともかくおかかのほうは、飲み込むのに難儀しているようだった。それでも日本通のプライドにかけて、
「トテモオイシイデス」
というしかなく、涙目になっていたのを、サチエは見逃さなかった。それでも彼女は、おにぎりに固執した。作る人が心をこめて握っているものを、国は違うとはいえわかってもらえないわけがないと信じていた。

甥や姪たちは無関心そのもので、雑煮をむさぼっている。いったい何をいいたいのかと、雑煮を手に考えていて、彼らが自分たちを頼るなと牽制しているとわかって、怒りがこみあげてきた。

洗面所の鏡の前で、寝癖を必死になでつけたミドリが顔を洗い終わったところを見計らって、トーストと目玉焼き、コーヒー、オレンジジュースというイギリス風の朝食がテーブルの上に並んだ。
「こちらの人は朝粥を食べたり、オートミールを食べたりするんですけど、どうも私はこういう朝御飯になってしまって。家にいるときは和食だったんですけどね」

特に何もすることがないので、ミドリはヴォイレイパというオープンサンドを買って、さっさとアパートに帰ってきた。夜7時過ぎにサチエが帰ってきた。
「コーヒーメーカーを、使わせてもらいました」
「ああ、どうぞ、どうぞ」
「疲れましたか」
サチエは残ったコーヒーを飲みながら、
「うーん、疲れたともいえるし、疲れたともいえないしっていうところですかねえ」
といった。

ミドリははっとして立ち上がり、満面の笑みでお迎えした。彼女たちはメニューも見ずに、コーヒー、紅茶、シナモンロールと注文した。オーダーは言葉ができるサチエが取り、ミドリは精一杯背後で微笑みを続けているだけだ。いちおうおにぎりもお勧めしたが断られた。

「これはお手製?」
と1人がシナモンロールを指差した。しかしフィン語がわからないミドリがうろたえていると、サチエがやってきて、自分が作ったのだと説明した。満足そうに3人はうなずき、2人が遠ざかったあと、
「あの子供はすごいわね。フィン語もしゃべれるし、店で出すパンも自分で焼いているんですって。おまけにこれ、とってもおいしいわ」
と口々に言い合った。

日曜日、2人は買い出しをしておいた食材で、おにぎりを作ってみた。キッチンの小さなテーブルの上に、おにぎりが並んだ。ザリガニは天むすふうに、シカ肉はクリーム好きの地元の人に合わせて、マヨネーズクリームあえ。ニシンはあっさりと酢漬けにしょうゆを少したらして中にいれた。ひとつずつ試食していった。
「天むすはエビのしっぽがぴんと出てるから。何とか格好がつくけど、これじゃあ何だかよくわからないなあ」
「そうですねえ。まさかザリガニ1匹をおにぎりに刺すわけにはいかないし」
次はサチエがいちばん難色を示していたシカおにぎりである。
「いくらこちらの人がクリーム系が好きでも、ちょっとこれは……」
サチエが顔をしかめるのに対して、ミドリは、
「いや、意外といけるかもしれませんよ」
と積極的になった。
「そうかなあ」
「本当にこちらの人はクリームソースが好きですからねえ。日本人はだめでもフィンランド人にはいいのではないでしょうか」
「うーん」
サチエは首をかしげている。
「ニシンは塩漬けの塩出しが問題ですね。でもおにぎりとは相性がいいですよ」
「うーん、でもやっぱり生臭い感じがするわねえ」
「じゃあ、もっと塩出しをして、フライにしますか」
どちらにせよ、サチエは積極的ではなさそうだった。
「だめ、ですかね」
おそるおそるミドリは聞いた。
「だめっていうより。おにぎりって日本人のソウルフードなんですよ。それをここで食べてもらうっていうのも、難しいのかもしれないけど、あまりアレンジするのもどうかって思うんです。やっぱりおにぎりは、鮭、おかか、昆布、梅干しなんです。日本にいても、どこにいても」

「ともかく損失補填をしよう」
と意見が一致して、その夜は家で肉を焼いて食べた。

グリンピースのスープを盛りつけて、ふと外を見たミドリは、昨日の仏頂面のおばさんがまた外に立っているのを見つけた。

「サチエさん、コーヒーとムンッキ。おにぎりはだめでした」
「はい、わかりました」
彼女が気になったものの、仕事をしなくてはならず、ドーナツを揚げている途中で、彼女は帰っていった。

「どうぞ、どうぞ。それまでなんていわないで、ずっといてくださってかまいませんよ。そうだ、シナモンロール、召し上がりませんか。お嫌いじゃなかったら」
「ありがとうございます。じゃ、いただきます」
コーヒーとシナモンロールを食べているマサコを見て、この暗さをなんとか明るくできないかと2人は考えた。

次の日、サチエとミドリは早めに起きて、コーヒーを保温瓶にいれ、パンとおにぎりを持っていった。呼び鈴を押しても出てこないので、
「『かもめ食堂』です」
と声をかけると、静かにドアが開いた。
(中略)
コーヒーを淹れてくれようとするので、サチエはそれを押しとどめて、持ってきた保温瓶からカップにコーヒーを注いだ。
「私は水にするわ」
おばさんは冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、けだるそうにグラスで水を飲んだ。
(中略)
「自家製のパンとおにぎりを持ってきましたから、よかったら食べてください」
おばさんはじーっと目の前のおにぎりを眺めていた。サチエが握った鮭のおにぎりで、つやのある海苔が、白い御飯に巻き付いている。
「この黒い紙はなに?」
「日本の昔からある食べ物です。海草を枠でかためて干したものです」
おばさんはおにぎりには手をつけず、パンをひと口食べて、
「おいしいわ」
といってくれた。

「おにぎりを食べたいんです。ここのおにぎり、おいしそうだから」
おにぎりと小耳にはさんだトンミくんは、いったい何を注文するのだろうかと、耳をそばだてている。
「鮭とおかかをお願いします」
「オー、オカカ」
(中略)
マサコの前に運ばれたおにぎりを、両隣のテーブル席の客たちは、興味津々で眺めていた。三角のおにぎりが2つ、皿の上にミニミニピラミッドのように立っている。
(中略)
「いただきます」
おにぎりを両手で持ってぱくりと食べると、
「手で食べた。箸やフォークは使わないんだわ」
「ごらん、黒い紙は剝かないで食べたよ」
「おいしそうに食べてるねえ」
「あ、中から何か出てきた」
「隠されてるのよ。あれは鮭のほぐしたものだわ」
「そこのところは、パイみたいだけどパイは全然違うね」
「焼いてないもの。違うわよ」
などと、自分たちの食事をそっちのけにして、マサコに注目していた。マサコはうつむきかげんになって照れながら、おにぎりをもぐもぐと食べた。

「森できのこを見つけたのれす」
「きのこ?」
「めらつきのこはあぶないから、じみなのをとったんれす。それをちょっとらけ、今朝、ホテルでカップ麺にいれて食べたら、こんらふうになってしまいました。でも食べたのはほんの少しなのれす」

「コーヒーとそれとシナモンロールに、たっぷりと生クリームをかけてもらえるかしら」
「はい、わかりました」
サチエはパン皿の上に生クリームをたっぷりとのせたが、それを見たリーサおばさんは、
「もっといれて」
と追加させた。
「おいしいわね。あなたが作ったの」
「はい。うちの店のいちばん人気なんです」
「でしょうね。この間持ってきてくれたパンもとてもおいしかったけど、これはその上をいくわ」
おばさんはシナモンロールにたっぷりと生クリームをのせて食べている。それでもどこか満足していない表情だ。
「ああ、おいしかった」
ちょっとだけ笑ってくれたので、3人はほっとした。

「お疲れさまでした」
2人は店を閉めてから、ふたつ残った甘いパンを食べてひと心地ついた。
「それでは帰りますか」

リーサおばさんはコーヒーといつもの生クリームたっぷりのシナモンロールを食べて、
「ささ、ルースちゃん、おうちに帰りましょう」
と子犬を抱っこして楽しそうに帰っていった。

「まだ、ハゲは帰ってこないわ」
といいながらも、ルースを抱っこして、明るくコーヒーと生クリームたっぷりのシナモンロールを食べていく。

彼女がメニューを眺めていると、トンミくんが、
「おかかはやめたほうがいいですよ」
と小声でアドバイスした。これも真剣に聞いていた。
「じゃあ、鮭にするわ。でも小さくしてね」
サチエは心をこめて、小さなかわいい鮭のおにぎりを作った。
「どうぞ」
目の前のおにぎりを眺めながら、リーサおばさんは、
「いつ見ても、この黒い紙だけは不思議だわ」
とつぶやいていたが、ルースはおにぎりに興味津々だった。おばさんはおにぎりを一口食べた。3人はじっと彼女を見つめた。
「そうね、おいしい……ような気がする。うん、おいしいわ。あなたが私のことを思って作ってくれたんですものね」
ルースは腰を振りながら、ちょうだいちょうだいといっている。
「あら、食べたいの」
口元に持っていくと、あっという間にぱくぱくと食べた。

群ようこ著『かもめ食堂』より

かもめ食堂

かもめ食堂

  • 小林聡美
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