Apple II、「スター・ウォーズ」シリーズが世に出た年に連載されたアメリカについての随想なのだが、活版のせいか、著者の独特のテンションの文体(勝手に盛り上がりがち)のせいか、さらに一世代前に書かれているように感じる。
鮮度の落ちる、あるいは今では差別的にも読める内容も多いのに10年以上版を重ねているのがネットなき時代ならでは。
歴史通が案内する70年代のアメリカ旅行ガイドはなかなか楽しい。
この本、電書版がないのはもちろんのこと、前の読者が一度も読んでいないか、倉庫かどこかから出てきたのか、古書で手に入れたわりには美品で装幀も活字も美しいので『マーチン街日記』と共に手放せないのが困る。
一度手放したらもう手に入らなくなりそうだし。
一文の中に表記のゆれが見られるのも良き。
彼女が指摘するところのアメリカン・バリューは近年キャンセルされがちなローラ・インガルス・ワイルダーのそれと同じで、在米歴わずか10年の私もまた同意するところである。
宗教なきアメリカ魂は、実は考えることが出来ない。それは存在しない。そして「アメリカの自由」は、絶対唯一の存在者としての神の名において、神のみまえにおいて、各自が良心の命ずるままに忠実にしたがう、その自由なのである。
前に、「ある時期の私の遊びだった」と書いたが、それは、ある時期、夢中でアメリカにまで出かけたという意味で、その時期のすんだいまも、遊びでありつづけることに変りはなく、冬の長い夜などはほくほくよろこんで、ロスコー・パウンドと言うえらい法学者の書いた「アメリカの慣習法(コモン・ロー)」の厚い本だの、民間の人々の書きのこした18世紀の手記だの、ひっぱり出しては読むのである。
あるいはアメリカの「心」とも言えるホイットマンの「草の葉」の詩のいくつか。
どんなものを読んでも、私は元気になる。
なぜなら、アメリカの本質は、未来に向う何か、だからである。
それらは次第に、私の心の中で、雪に埋もれる東部の小村の、小さな木造の家の煙突からうすむらさきいろに立ちのぼる、メープルシロップを煮るかまどの煙に移って行ったり、輝く紅の森の中でリスたちと一緒にひろった小さなリンゴの姿になって行ったり、どこもかしこも、すみれで紫いろの林の中で友人たちと採った春のきのこを、どろだけはたいて洗いもせずに、香り高い松の小枝で焼いて食べた思い出に重なって行ったりする。
「アメリカ」は、私にとって、まず、大地を、土の香りを、土に近い健やかな日々を、意味する......ああ、アメリカ!行ってみれば、ノーベル賞が裏の林からわらびをとって来て苦汁をぬいてサラダにしたり、ピュリツァ賞が湖で釣ったばかりの魚のうろこを取っていたり。手焼きのパン。あったかいおいしいパン。手焼きのビスケット。とれたてのわらびやきのこや木の実。
「ホームクッキングでは、アメリカがいちばんおいしい。フランスの比じゃない」
と私がいちど言ったら、食いしん坊のいとこが大声を出した。
「道ちゃんのうそつき! アメリカなんてものすごくまずいって言うじゃないの!」
うそつきではない。
まず、地図を見るがよい。北の海、南の海、西の海、東の海。その産物はたいへんなものだ。大地は渺とひろがって、世界一の穀倉をつくり出す。900万平方帰路(日本は37万平方キロ)の土の上で、とれないものはないのである。
「そんなこと言ったって、アメリカ人がコックじゃあね......」
アメリカ人とは、では何なのだ? めちゃめちゃのよりあい世帯ではないか。その寄合のおのおのが親から伝わったお国ぶりをちょっと加えた——ときにお国ぶりそのものもある——料理をつくる。ツーリストが大都会のツーリスト向き料理屋で食べて「まずい」と愚痴るようなしろものは、親しい仲間を招ぶテーブルにあらわれっこないのである。日本の雑誌が麗々しく「アメリカンクッキング」として紹介するようなものも、ハンバーガーもめったにはあらわれない。
堅実な階層は、大方の場合、元の元から手づくりにする。健やかでほのぼのとなつかしい、土に近い、自然のめぐみをよろこんで受けた料理の数々。
人の生き方も——堅実な階層では——健やかである。働きを愛し、質実を尊ぶ。そしてちぢこまらない、閉じこもらない。列車がニューヨーク州西端の深く壮麗な渓谷にさしかかるころ、食堂車のベルがなった。が、彼女は夕食に行かなかった。あまりに苦しかったからでもあるが財布の中味が悲しくなるほど乏しかった(当時、奨学金学生に給与される小遣いは月10ドル。占領下の祖国からの送金は不可能であった)からでもある。翌日のひる、ノンストップだった列車はデトロイトに着いた。車体を洗い点検する2時間の停車時間に、他の乗客は自動車王フォードゆかりの町に行ってひるをすませた。しかしここでも彼女は食事をぬいた。さすが空腹にたえかねて、彼女があのボーイを呼びトマトサンドイッチ(これは一番安くて、当時10セントであった)とオレンジジュース(当時3セント)をとりよせたのはその午後だった。翌日。オクラホマの大草原。疾駆する馬上のカウボーイの一群がはるかに見えた。彼女はもう一度ボーイを呼んでトマトサンドイッチとジュースをたのんだ。
(この後、療養に向かう留学生の筆者がアムトラックとその乗客から受けた特別待遇は感動的なので、ぜひ読んでください)
あげくのはてに、何が何だかわからなくなって、ハワイの海辺にぼぅと5時間坐りこんでパイナップルをふたつも食べた。そしてスタインベックとチャーリイが考えたと同じことを考えた。
と言うより、正確には、「自分は、象の尻尾の先にぶら下って、ちっとばかりうろうろした蟻みたいなもんだ」と。このルイジアナ州をショーボートで名高いミシシッピの河が貫いてさいごに大海に注ぐ突っ鼻に州都ニュー・オルリインズがある。アメリカの食いものはまずくって、と、知った風の固定観念にがんじがらめになった人は、まずのっけにこの「フランスのアメリカの町」に行くがよい。南北戦争のときに南軍将校がかくれがとした料亭アントワンの(他にもパスカル・マナーレとかコモンドールとか有名な店がある)きめこまかく心のこもったフランス料理は、いまどきのパリの同じていどの値の店では香りをかぐさえ不可能と思われる水準。望郷の念と呼ばれるものが加わる分だけ、心がこめられて美味しい、のである。
カリフォルニア州やミズーリ州には、スペイン初期移民の名残がいまだに息づく。サン・ディエゴのそばで食べたスペイン料理のおいしかったこと! 今はなくなったが、昔あったニュー・マドリッドとか、今もなじみのロスアンゼルス、サン・ディエゴとかの名を見ただけでもスペインだ。スペインや南仏のオレンジ・レモンをビタミン補給のため、山のように積みいれる「富んだ」船もたまにあった。が、大方の船は、十日も水の上を走るうちに、新鮮な果物・野菜のひとかけらものこさないのが普通だったから、全員が壊血病や栄養失調になって、ほぼ半数の船客の水葬を日々くりかえしながらやっとのことでたどりつくことも珍しくはなかった。
たれもかれも、貴族だった人も貧民だった者も悪党も善人も、身にしみてそう願った、「祝おう、祈ろう、次の冬も生き永らえられるように」
そのあたりには野生の七面鳥がいた。
カボチャのような野生の「食べられる野菜」があった。大森林の木の実があった。
それらを人々は採った。七面鳥を焼き、カボチャを甘く煮て(なつかしい故郷で嘗て食べたタルトやパイを思い出しつつ)パイまがいの菓子を焼いた。木の実をつぶしてソースをつくった。日本の婦人雑誌に折にふれて紹介される「アメリカン・クッキング」である。その献立のつくられたとき、「アメリカ」と言う国名はまだなかった。「アメリカ人」もいなかった。人々は自分たちを「マサチュセッツ人」だの「ヴァジニア人」だのと呼んでいたから。
も少し時代をさがって、西の砂漠や、突風の容赦なく吹きまくる大平原や、馬も人も呑みこんでしまう南の沼地に入って行った人々の、最初の感謝の食事のメニューは、当然ちがうものだった。
最初の最初であるマサチュセッツ移民の「七面鳥メニュー」は、怒涛のごとく、毎日毎月、一歩ずつ「無人帯」に入りこんで行った2世紀の幕が閉じられて、押しも押されぬ、新しい「寄り合い国家」が出来上り、国家意識がようやく多彩な人々をひとつにまとめあげたのちに「アメリカ的」メニューとなった、のである。それは記念のメニューであった。そして献立と味つけは、その背後にかくされた、大きすぎる人間ドラマの小さな象徴であった。イワシのカンヅメ2つの暮しは、アレクスが黒人だったから、ではない。1920年ごろのニューヨークの下町には、イワシどころか、生きたネズミ1匹と乾パンを「わけて食べ」「いつか、ある日」を待ちながら、せっせと、ミッキー・マウスと名づけたそのドブネズミを写生している白人の男もいたのである。のちのウォルト・ディズニイだ。
食はふんだんだった。大農場の主人(マサ)は、かりにケチンボであったとしても、奴隷の食に関しては全く鷹揚だったから、マサ付きの黒人コック(ほとんどの場合、でっぷり太った働き者で好人物の女奴隷)が、トムはチキンが好きだから、サムは肉だんごでなくちゃいかん、クンタは西アフリカから来たばかりだし回教だから(奴隷船はなやかなりしころのアフリカの奴隷山地の少なからぬものは回教だった。だからアフリカから来たばかりの連中の中には、少なくともコーランの主要部分を暗記している者さえまじっていたのである。この、回教的——言いかえればアラブ的——要素が、奴隷を先祖とするいまのアメリカ黒人の中に、多分にのこっているところにも、今日のアメリカのひとつの政治的大問題があり、アラブ対イスラエルの中近東問題などをめぐったとき、往々火の玉となって爆発するのである)豚やハムは決して食べないよ、とか、一々に気を使っては、みんなに「おなかいっぱい」食べさせるのだった。大体において献立も質も、マサ一家のそれと同じだった。
いまでも南に行ってみると、時々、素朴な「フーケーキ」と言う、頰ぺたのおちそうにおいしいあつあつのケーキを御馳走になる。フーはhoeで鍬だ。鍬をふるって綿の畑をたがやしつつ、その鍬の刃を鍋がわりに、トウモロコシ粉や粗い麦粉に手製のバタをとろとろに入れて、畑にしつらえたじか火で焼いた「奴隷の菓子(おやつ)」——まさにアメリカ版鋤焼きお好み焼きである! 飲物はさまざまの果汁、ふんだんのミルク。午後5時か6時の仕事じまいのあとは、果汁酒もウィスキーも意のままだった。祝日にはマサからコニャックの贈りものがあったり。日曜は仕事なし。フカフカのコーン・ミール・ブレッドやパンケーキにそえる飲料は、日曜や祝日にはぜいたく品のコーヒーだった。23年間もそう言うインディアンの一族とつきあったオランダ人(彼の名は知られない。手記が無名のまま残されたからである)は書いている。
「......23年間、彼らの生活ぶりはほとんど変化しなかった。鍋、斧、ナイフ、矢にするための鋼......そんなものの他、物資と言うものを必要とせず......食料は火で焼くか湯焚きにするか、魚肉と獣肉。獣肉のときは細長く切った肉片を串に吊して火であぶる。串はめいめいの持つべきただひとつの『食器』だ。いっぺん食べはじめたら、一串、また一串、時をかけて食べ、ほとんど一日中食べている。要するに食べ貯めだ。
......鍋は、大きな木材をくりぬいて丸くつくったもので......それにまず水を入れ、次に煮たいもの(肉など)を入れる。......一方、適当な大きさの石をまっかになるまで火の中に入れておく。まっかになったら棒を使って火の中から取り出し、木の鍋に投げ入れる。とたんに水は沸きはじめ肉は煮えはじめると言うしくみだ。船中での食事は、ひとり当り1日、半パイント(約1合5勺くらい)の乾豆と、160グラムの粉ときめられている。(注、この量は、1624年の航海日誌に出て来る)
土は黒くて肌がこまかくて、とうもろこしと小麦大麦にとてもよい。何しろ、蒔けば出て来る。もろこしは出て来れば12から18フィートもの高さになって、その果のやわらかいこと、あまいこと!(注、カンサスのもろこし・麦の売上げ高は、われわれの時代の今日、年に25億万ドルである!)
1965年の夏。私は中部カリフォルニアに住む長年の友を訪ねていた。(中略)トマトとブドーを主にして、やけにジュースをつくっていた。もちろん売るために、である。
一番近い町——スーパーや郵便局や新聞を売る店やちょっとした小病院や警察のある——は、超スピードのスポーツ・カーで走って1時間半の先にあった。
「肉は、牛2頭を半年に1度買って、町の肉屋の貯蔵室に入れておいてもらって、1ヶ月に1度、足1本とか背中ぜんぶとか、車につんで来て大型冷蔵庫に入れる」んだそうだ。ニワトリは自給自足。豚も自給自足。と、話を聞いて思い出した。初代大統領ワシントンの日記である。もっともそれを書いたとき、彼はまだ大統領ではなく、「一開拓民」であった。こんなことが書いてある......
「1760年1月9日(水)フレンチさん所有の野豚を屠殺。肉をさばいて分けあう。肉の目方、きっちり751ポンド。ウェスト大佐の昨日くれた豚につき疑問あり、送り返さざるを得ず。11日(金)年俸の一部としてステファンスに豚肉を送る。目方、69及90。(つまりしめて159)25日(金)......アレキサンドリアに出かける。わたしの分のタバコの葉が山からおろされて来たため。大へんにわるい状態だ。月曜に調査することにする......」
(ベートーヴェンの日記には家政婦への不満ばかり書いてあるが、ワシントンの日記には豚とタバコと天気のことばかり書いてある!)
百ポンドもの肉を分け前にするのだから、「冷蔵」はとうに問題だった。3代目大統領のジェファソンは、いろいろ工夫して、ついに「真夏でも」「何百ポンドの肉でも」冷蔵出来るしくみを考えついて自分でそれをつくった。ヴァジニア州のモンティ・チェロと言う旧ジェファソン邸にゆけば今でも見ることが出来る。「3人の階位はいまだにあのころと同じだが、少々、格差がちぢまって来て、Rもこのごろでは週に3回くらいステーキを食べる」をうだ。日本にいたときはひどかった。1日100円でまかなおうとして、そばばっかり食べていた。Rをよぶとき、母は特大のステーキを2枚も焼いたものだ。
「あの子は倒れちまうよ、栄養失調になるかもよ」と。が当の本人は、あっけらかんとして、「そばと言うさみしい食物」についての記事など書いていた。研究室の連中は、ひるになると、ロリイの陣どる入口ホールにつづく食堂で、近くのサンドイッチ屋からロリイが買って来たサンドイッチを食べることになっていた。
ある日のこと。ロリイいわく。
「コニイ(中略)、どうしていつもローストビーフなのよ。ツナ・サラダ・オン・トーストと言うの、いっぺんためしてみたらいいのに」
コニイ、笑う、「だって、好きなんだから」ふつうの白人系アメリカ人が、ふつうのひるどき、どんなものを食べるのか、そこにも「ひとつの顔」は出て来る。意外に質素だ。意外においしい。天気のよい日なら、多くのヨーロッパ人ツーリストがするように、スーパーでない小さな食品店で、パンやソーセージや果物を買い、どこかけしきのよい(たとえば名高い金門橋を見はるかす)丘の上の公園か何かに坐ってピクニックをやるのもよい。私はどこの国に行くときも、バッグの中に携帯用ナイフ・フォーク・スプーンの一式に(飛行機の中などで取って来た)塩・砂糖少々、出来れば小さいマホービンを持ってゆく。疲れたと思った日の夜食は、大てい、これらをフルに活かしてホテルの部屋で土地の新聞などゆっくり見ながら、土地のふつうの「おそうざい屋」で買ったものを食べる。「食べ歩き」の名所に行くより、その方が「土地が身近に感じられる」ことがあるのだ。
カルメル・モントレイの小さな町は、今ではいささか「シック」になりすぎた。(中略)
茅葺屋根の家々もある。(その中の1軒はトックボックスと言って、大へん名高い。ちっぽけな古い家で、朝食専門と言う、めずらしいレストランだ。ここのマフィンズ、トースト、ホットケーキ、本物のメープル(楓)のシロップ。大した味だ)
ホテルの中には、小さな寝室・浴室が1軒をなすいわゆる「小屋」を庭いっぱいに「ちりばめた」面白いものもある。浴室のすみっこには、ネスカフェの瓶と土瓶と電気コンロ。どこぞでパンとジャムを買って、朝食は勝手に、と言う意味だ。気らくで楽しい。ニュー・オルリインズなら日本人十八番の食べ歩きに持って来いだ。料亭アントワンは決してのがしてはならぬ。ロックフェラーが「世界の」富豪となった年(つまり1860年度と記憶する)に、それを「記念して」フランス系のコックの「発明」した、ロックフェラーと言う卵とほうれん草の料理(「発明」以来、これを食べた客の、あなたは何人目かと言うカードをくれる)はのがしてはならぬ。ふところがさみしかったら、これだけでよい。相手は「これを知っている客だったか」とよろこんでくれる。このレストランには、南北戦争のとき、双方の兵がかくれた。南軍の将兵のかくれた部屋はそのままになっている。
このへんからカロライナ州にかけ、ジョージア州にかけて、食べものは「南の食べもの(サザン・クッキング)」になる。たとえば、デザートの主役は、「古き英国」のあのパウンド・ケーキ。
独立戦の義勇兵の最初の第一砲のとどろいた「北の橋」のコンコード。(ここではインディアン・プディングを必ず食べること)
9月なら、私の見た限りの秋の中で最も美しく輝き渡るニュー・ハンプシャイアのホワイト・マウンテンズを見るのもよい。みやげは手づくりの素朴な石鹸。ローソク。手織りの布。りんごのサイダー。コンコードあたりでいくらでも買える。......意外に、そしてひどく、土に近かった「愛すべきアメリカ」を心に抱いてボストンから羽田へ......
犬養道子著『アメリカン・アメリカ』より