たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

林真理子著『テネシーワルツ』

この昭和の終わりに発表された小説を20年ほどの間に3形態で読んでしまったことになる。
単行本、文庫本、そして文庫本を底本にした電子書籍。
スタアが出先で振袖の着付け直しができなくなったところに洋服を持ってかけつけ、その表情の不潔さにゾッとする、というところだけ覚えてるのな。
たぶん何かで成人式にラブホに出張する着付けサービスがある、ということを聞いたのとダブっているのだろう。

高度成長期は知らないけれども、テネシー州には縁があってこの歌には私も郷愁を覚える。

その夜、同じ町営住宅に住む元木さんの奥さんが、文勝と正治にふかし芋を持ってきてくれました。
(中略)
元木さんが急いでつつんできたらしく、まだあたたかいお芋の包みは、大きく新聞紙が盛り上がっています。

冬の陽は驚くほど早くかげり、駅前の商店街にたどり着いた時は、すでに薄闇が漂いはじめていました。この3、4年見られるようになった荒巻き鮭やきんとんなどといった正月用品が店頭に並んでいます。

バス停前の菓子屋で、私は100匁(め)45円のビスケットを200匁ばかり買いました。ABCD......と英文字の形をしており、上にザラメがかかったこの菓子は子どもたちの大好物でした。

私がサチの家に行く日は、元木さんは早めに夕飯をつくってくれて、その後自分の店に行くのでした。
「あんた、他人におまんまつくってもらうなんて、そんなみっともないことが出来ますか。田舎料理だから、ご馳走を食べつけているあんたの口には合わないかもしれないけど」

「わーい、お母ちゃん。今日はお魚だよ」
襖の向こうから文勝が声をかけました。台所の方からはタラを煮るにおいが漂ってきます。私はもう何日もそんなことに無気力だったはずです。夫や子どもたちに何を食べさせるかという、今までいちばん気がかりだったものがふうっとどこか遠くへ行ってしまっていたのでした。

「さ、サッちゃん、これ」
私は揺り動かして、魔法瓶から熱いほうじ茶を飲ませます。本当はそのまま寝かせてやってもいいのですが、
「朝早いとなかなか声が出にくいから、まず熱い茶を飲ませてやってくれ」
というのが横田の指示なのです。

錦蔵の部屋で出された料理はたいそう贅沢なものでした。洗足の家の食卓も他の人から見れば、おごったものかもしれませんが、戦災にも焼け残ったというその古い小さな旅館で運ばれてきたものは、私を驚かせるのに十分なものでした。若鮎があります。カツオの刺身があります。そしてじゅんさいの酢のものも生々とした緑を見せていました。

「ふつうの人と同じような暮らしですよ。サチはお茶漬けとか煮物が好きですし......」

元木さんと駅で別れた後、私は魚屋に寄りました。日が落ちたとたん冷えてきたのでチリ鍋にするつもりでした。タラとカキと一緒に、私は塩ジャケを2切れ買いました。私と圭子ちゃんの分です。女中は家族のものより値段が落ちるものにして、台所で食べるというのは時枝が守っていた習わしでした。

「このあいだ買った、外国のお料理ブックに出ていたようなものをつくってちょうだい」
と言うのですが、私にはさっぱりわかりません。もともとハイカラな料理はあまりつくったことがないうえに、その本は翻訳されていずに英語で書かれているのです。
「これよ、これ。ハリウッドのパーティーで飲んだことがある。パンチっていうのよ。これと同じものがほしいのよ」

頃合いを見はからって出すように、あらかじめつくられた料理の大皿がいくつか並んでいます。(中略)それは肉を焼いて薄く切り、汁をかけたものです。私は圭子ちゃんに気づかれないように肉の一片で縁の血をぬぐいました。赤い血は茶色の肉汁にまみれて見えなくなりました。

「このあいだどこかの雑誌に、サチはちりめんじゃこのお茶漬けが好きだって言ってたじゃないの」

時々はエプロンをつけ、サチが料理をつくる場面の撮影もあります。
「お得意はシチューとサラダ」
というのが決まり文句ですが、つくって皿に盛ってやるのは私の役目でした。
「まあそうは言ってもハイカラな家で、うちで働いている女の子なんか、あれを見るたびにため息が出るって言ってるわよ」
元木さんがつまみの皿をテーブルの上に置きながら言いました。ありあわせと言いわけしましたが、ぶ厚いまぐろの刺身もあれば、紫蘇を敷いた塩辛もあります。
「ま、奥さん、ぐっと飲んでくださいよ。この暑さだ。冷えたビールでもキュッとやらなきゃ仕事にとりかかれませんや」

「うちの人が言うにはね、今は人の舌も肥えてきた。昔みたいに飲ませりゃいい、食べさせれば客が満足する時代は終ったんだって。うちはね、この人の北海道の田舎から、直に魚や干物を送ってもらってんのよ。これが評判よくってね」
「そう。小料理の値段で、割烹みたいなもんが食える。これがはやらなかったら、いったいなにがはやるんだと俺は思ったわけだ」

朝、サチが起きると、私は美容にいいというジュースをミキサーでつくって飲ませてやります。トーストをふた切れ、バターを塗ってさし出し、野菜いためにフォークを添えます。夜は夜で、どんなに遅くなろうとも起きて待っているのも私です。アメリカに旅行してからというもの、サチはハイカラな洋食を好むようになりましたが、家ではやはりお茶漬けやお握りを欲しがります。
「外で食べるとなんか食べた気がしなくて、家へ帰ってきて、お茶漬けをかき込むとしんからホッとするわ」
言葉どおり、どんなに遅く帰ってきてもサチはおかわりをします。そのためにも私は糠ミソをつくり、冬は白菜をつけました。

新宿で私は、三越に寄ってステーキ用の肉を買いました。お菜をつくる時間がなかったので、簡単にできておいしいものをと思ったのです。それに新しい男主人の奥平は、牛肉がなによりも好きでした。ヒレ肉は3枚買います。神泉にいた時のような、みじめったらしい遠慮はもうしませんでした。夫婦が揃っている時は2人でテーブルに向かいますが、サチひとりの時は私が相手になります。私がサチたちと同じものを食べるのは当然という雰囲気がもうでき上がっていました。
私は冷蔵庫を開け、輸入もののバターの缶を出しました。フライパンにたっぷり落とします。やがて肉の焼けるにおいが台所いっぱいに漂いはじめました。ちょっと風味をつけるために、応接間の洋酒棚から奥平のブランデーを取り出し少しふりかけます。今日は2人とも仕事があって、帰るのは10時すぎになるはずです。
1枚200円近くした牛肉は確かにおいしく、余った肉汁をご飯にかけたほどでした。

「そう、お肉が買ってあるの。ステーキ用のね。じゃあ、あとはサラダをつくって......でももう一品なにかつくるわね」
緑色のツーピースを着替えるひまも惜しいらしく、サチはエプロンをつけます。
(中略)
サチは真剣な顔で包丁を手にとりました。じゃが芋の皮をむきます。粉ふき芋をつくるようです。私は思わず吹き出しそうになりました。
「サッちゃん、新じゃがは皮をむいたら何も残らないわよ。手でキュッキュッってこすればツルッとむけるから」
サチは黙ってじゃが芋を洗いはじめました。
(中略)
「ねぇ、今日は暑かったから、ご飯の替わりにひや麦にした方がいいと思わない? でも勇さんはご飯が好きな人だから、やっぱり少し用意しておこうかな」

「用意はできてるの。後はお肉焼くだけ」
「いいよ、そんなに急がなくたって。その前にビールを飲もうよ」

「私、帰りが遅くなりそうだから、勇さんに先にご飯を食べるように言っといてちょうだい。冷蔵庫の中にロースが入ってるわ。それを生姜で焼いてあげて。それとお野菜をたっぷりつけてね。大根おろしで食べるの、勇さん好きだから、忘れないでちょうだいね」

この言いわけを考えついてからサチは急に明るくなったようで、トーストをぱりっと歯でかみ切ります。

私は台所で炊き込みご飯をつくりながら、そんな連中を心の中で苦々しく思っていました。

その漢方茶を私は魔法瓶に詰め家を出ました。バスケットの中には、小さなお握りと、野菜の炊き合わせ、焼魚なども入っています。稽古には弁当が出るのですが、こうした特別製の食事をわざわざ運ばせるのは、主役としてのサチのプライドでした。

林真理子著『テネシーワルツ』より