たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

本物について 朝井リョウ『スター』

私が常々考えている「本物」「時の流れに耐える創作物」の条件についての一考察で面白かった。
南沢奈央氏の解説がとてもよかった。

スター

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「2人とも、もう昼飯食うたね?」
食料庫に酒を収めていると、桑原がそう訊いてきた。まだ、という返事の代わりに、ぐう、と腹が鳴ってくれる。
「食べていく? 今日昼食べる人あんまおらんで、食材のあまるごたっとよ。うち、宿泊客の数に関係なく魚ガンガン入ってくるけんねえ」
紘は昭と顔を見合わせる。

そう微笑む千紗のもとに、太刀魚のインボルティーニが届けられる。その瞬間、千紗の興味関心が尚吾の話から目の前の料理にごっそり移動したことがよくわかる。
「俺の話はいいから、食べよう。今日は千紗の“勉強”なわけだし」
尚吾がそう言うより早く、千紗はもうナイフとフォークを握っていた。お目当ての料理を前にした千紗は、ピストルが鳴るより早く走り出してしまう小学生のようだ。
千紗の信念の一つに、憧れの料理人が自伝に書いていた「本物の料理をたくさん食べなさい。それが料理人にとっての一番の勉強なのだから」という言葉がある。料理人を志して以来、千紗は、稼いだお金をすべてその“勉強”に注いでいる。一人では入りづらいお店もあるから、ということで、尚吾も恋人関係になる前に“学友”となったわけだが、今では尚吾もインボルティーニが包み料理を意味する言葉だということくらいはわかるようになっていた。
「うわっ、おいし、これ」
一口含んだ千紗の頬が、ふんわりと盛り上がる。
(中略)
「インボルティーニってイワシとかではよくあるんだけど、太刀魚のは初めてかも。太刀魚の身ってこんなにやわらかいんだ、発見」
さすがにこのお店のスペシャリテということもあり、おいしい。千紗は学生のころから、数か月先しか予約の取れない店をとりあえず押さえておき、その日を絶対に空けられるように日々を過ごす、ということを続けている。そして予約当日は、どれだけ高くても、その店のスペシャリテを楽しめるコースを選ぶのだ。今日のお目当ては太刀魚のインボルティーニだが、これまでも、カボチャとフォアグラのソテー、カサゴのブイヤベースなど、千紗と出会わなければ一生食べることのなかっただろう料理はたくさんある。
(中略)
あっという間に太刀魚をきれいに平らげた千紗が、うっすらと瞳を潤ませている。
「こうやって、食べてみたかったものを食べることが仕事に繋がってる状況、ほんと幸せだなと思うもん。毎日玉木さんが料理してるところ間近で見られるだけですごいことだし、もっと言うとキッチンの道具ひとつ取ってもこれまでとは全然質が違う感じ」
(中略)
千紗がそう呟いたとき、尚吾の背後からデザートの皿を持ったウェイターが現れた。ピンと張った背筋はまるで矢が放たれる直前の弓のようで、ヨーグルトの爽やかな香りも相まって期待感が高まる。

「他のチャンネルと比べると、飯系の動画が弱いんだよな。要も実際コンビニのサラダチキンとゆで卵ばっかりだろ?(中略)」

あの部署にはつまみに崎陽軒のシューマイが大量にあるらしい、あの階では役員が昔取った杵柄でバーテンダーをやっているらしい―――色とりどりの噂が行き交い、まるで人気アトラクションだらけのテーマパークのような雰囲気だった。

「飲まないならせめて、つまみくらい食べれば?」
ほれほれ、と、浅沼がまるで動物に餌付けをするように魚肉ソーセージを振りかざしてくる。尚吾は「いらないです」と断りつつ、デスクの上に置いてあるシェイカーをちらりと見る。少し前に、食事の時間を短縮するためにと購入してみたものだ。
人間の生命活動に必要なすべての栄養素を、手間をかけずに摂取できる「完全栄養食」。寝食の時間も惜しいような場面を効率的にサポートします―――そんなキャッチコピーが目に留まったとき、さすがにこれはやりすぎかなとも思ったが、好奇心が勝った。何度か使用してみているが、想像以上に腹持ちがよくて驚いている。

朝井リョウ著『スター』より