たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ラマダーンの愉悦『BUTTER』(17)

昔、片倉もとこ『イスラームの日常世界』でラマダーンの饗宴について知った。里佳も言っているように、律法的な断食修行というイメージとは真逆の習慣が描かれていた。

身体に組み込まれた機械作業のように、白米を炊いて一膳ずつ冷凍、果物の皮をむいてカットしジップロックへ、野菜を茹でたり塩でもんだり、乾物を水に浸け、鶏の胸肉やささみを電子レンジで酒蒸しして指で裂き、同じサイズのタッパーウェアにつめていく。手さえ動かしていれば失敗なく出来上がるものばかりなので、作業中は何も考えなくていい。1ミリも動けない、何も食べたくない、と身体が重く沈むような夜、火も通さずに、容器からつまみあげ、そのまま口に放り込める自分のためだけの料理。

壁際に並んでいるのは湯気を立てている鍋や炊飯器、山盛りの果物やチーズ、名前がまったくわからない野菜料理、ラム肉、色合いがグラデーションを織り成している数種類の小さな焼き菓子。その前には、使い捨てのアルミの大皿を手にした人々が、列を作っている。大学生くらいの女の子が各テーブルにチェリージュースを注いで回っていた。
(中略)
「トルコのラマダーンを、日本にも体験してもらおうという試みなの。どう、断食できた?」
「うん。って言っても、朝はヨーグルト食べちゃったけど。ていうか、断食なんていうから、もう、ダイエットしろってほのめかされてるかと思って軽く傷ついちゃったよ!(中略)」
(中略)
色とりどりの野菜や果物。いずれも普段のスーパーで見るものより、ずっと大きく色鮮やかで、異国の市場に来たようだ。ケバブや種類豊富なパンも気になるが、やはりどうしても、お米に惹かれてしまう。羊肉を炊き込んだピラフ、ブドウの葉で巻いたピラフ、中にピラフを詰めて焼いたピーマンが、特に気に入った。つるつるした舌触りの水餃子に甘さのまったくないヨーグルトソースを添えたものも、食欲を刺激する。豆のサラダは噛みしめるたびに腹の底からしたたかさのようなものが湧いてくる。たっぷりのシロップを吸い込んだ、小さくて硬いパイの奥歯がきしむ甘さに、脳の普段使っていない部分に蜜色の光が差して溶かされそうだ。同じものを口にした伶子は少し苦しそうに、眉を下げている。
「トルコのお菓子ってめちゃくちゃ甘いよね。舌がしびれそう」
「うん。すっごく甘い。でも、私これ好きかもしれない。一日一度の食事がこんなごちそうだったら、そりゃあもう、うっとりするくらい満足するよねー。断食を誤解してた。飲まず食わずが何日も続く、超辛くて苦しいものを想像してた」
「だよね。ねえ、これ読んでみてよ」
伶子が蛇腹折りされたパンフレットを広げてみせる。里佳は声を出して読み上げた。
「断食を免除される人は旅行者、病人、妊婦、子供、生理中の女性、意志が続かなかった人、そして、誤って断食を破ってしまった......人?」
とっさのことで里佳は吹き出してしまう。(中略)
「なにがなんでもっていう訳じゃないんだ? 断食って......」
「うん、出来る人だけ出来ればいいっていう考え方なんだって。出来ない間は休めばいい。出来なかった日数分、喜捨すればいいんだって。ラマダーンってそもそもは恵まれない人たちの気持ちを理解するためだから、苦しみとか減量が目的じゃないわけよ。(中略)」

「ビーフシチューだと思ってたみたいですよね。それで、彼はご飯にかけようとした。梶井は法廷でそのことを笑っていたけれど、作ってみると本当にほとんど、ビーフシチューと同じようなレシピなんですよ。ブフ・ブルギニョンて。洋食って明治に流行り出したヨーロッパの料理を日本人の口に合うようにした料理だから、弟さんの抱いた感想は、何も間違っていないんです」
「だから、それがなんなの?」
「ビーフシチューは、お母様の得意料理だったんじゃないですか。お二人は、お母様が作ったそれをハヤシライスみたいに、必ずご飯にかけていたんじゃないんですか」
(中略)
「(中略)うちのは、小麦粉を炒めて作るような本格的な作り方じゃなく、市販のルーを使ったビーフシチューだった。でも、野菜はごろごろ切ってたっぷり入れて、味噌とバターも少し足してたはず」

「購入した新居のお披露目に、8月1日の夜、我が家でささやかなパーティーを開きたいと思います。七面鳥を焼きます。お世話になっている皆様、この機会に是非お越しくださいませ。各自、お好きな飲み物と一品、手作りでも市販のものでも、何か食べものをお持ち下さい。(中略)」

柚木麻子著『BUTTER』より