たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

大団円『BUTTER』(18)

一応2時間のオンライン学習と試験合格を経てFood Handlerの認定証をとった(とらされた)身からすると、里佳が食中毒の懸念を知りながら晩餐会を決行したのをプロいと思う。私だったら、レシピを検索していてこんなキケン事例を知らされたら「子どもも来るのに責任とれねえ」と思ってとりあえず自作は諦めそう。

数メートルに及ぶ冷凍ケースの中に、ぎっしりと七面鳥が詰まっていた。ビニールコーティングされた上に網がかかっている巨大なグラビーボールのようなそれは、小玉すいかサイズのものから、うずくまって眠る零歳児くらいの大きさのものまで、あらゆるサイズが揃っている。いずれも、うっかり足に落としたら骨折する程、かちかちに凍っていた。

探していた、すでにマリネされて味付けが済んでいるタイプは見当たらない。仕方なく無味のものから、霜で覆われたそれをぺたぺたと触ってみて、5.8キロに相当するものを選んだ。

 

手間のかかった美味しいものばかり食べていきたいわけではない。深夜のオフィスでかきこむコンビニ弁当やカップラーメン、一人の夜に喉を詰まらせながらの冷たいご飯と納豆、タッパーに作りためたおかず。予想のつかない未知の味も、全部が同じくらい好きだ。

 

七面鳥全体に塩をすりこんでいく。皮のブツブツした感触に、背筋が泡立った。この中に手を突っ込んで、処理済みの首やレバーをと取り出すことを考えたら、先延ばししたくてたまらなくなる。

(中略)

下味は自分でつけなければならない。事前にネットをあちこち探したレシピをつなぎ合わせ、見よう見まねでブライン液を作ることにした。セロリ、人参、玉ねぎ、クローブをたっぷりの塩水に沈め、ワインが見当たらなかったので、引越し祝いで届いた日本酒をどぶどぶと注ぐ。それらをポリ袋の中に七面鳥と一緒に入れる。(中略)

休む間もなく、七面鳥の首をブーケガルニと一緒に鍋で煮出した。バターで炒めた小麦粉を加え、とろみをつける。グレイビーソースはまだ完成ではない。明日になったら、七面鳥の焼き汁をたっぷり加えなければ。

(中略)

水気を拭って塩とレモン汁を全体に擦り込み、アルミケースに収めた。

いよいよ、スタッフィングと呼ばれる、もち米と米の詰め物作りにかかる。

七面鳥から昨晩取り出した心臓、砂肝、レバーを洗い、細かく刻む。牛ひき肉、玉ねぎのみじん切り、刻んだ臓物、米類、松の実、ベイリーフ、ハーブを加えて、よく炒めた。レシピでは、そのまま水を加え鍋で炊くのだが、初めてのことで不安なので、炊飯器に入れて早炊きを設定する。伶子が教えてくれた失敗のないパエリアの作り方を真似た。

炊飯器の通気口から漏れ出る、旨味をたっぷり吸い込んだ米の匂いを嗅ぎながら、里佳の緊張は高まっていく。料理ブログやネット情報によれば、七面鳥にスタッフィングを詰めることは、最近では食中毒の危険があるとされているらしい。生肉部分に具材が触れるためだ。しっかりと火を通すことが肝心だが、あまりにもそこにばかり囚われると、ぱさつくこともあるという。焼く直前に詰め物をすること、ゆるめに詰めること、焼きながらバターを塗ること、この3つを守れば問題ない、とされているが、なにしろ9人もの客だ。(中略)

炊飯器のメロディと共に炊き上がった、褐色に染まり、内臓の脂で一粒一粒が光っているピラフをバットに広げる。(中略)

冷めたピラフを開口部から、七面鳥の中に詰めていく。ゆるくゆるく、側面に触れないようにと必死に言い聞かせながら、念の為一膳程度残して、スタッフィングを詰め終えた。タコ糸を引き出し、脚を縛る。爪楊枝を4本使って、開口部に皮をかぶせ封じた。

柔らかくしたバターを素手で七面鳥に塗り込めていく。自分の指の熱で白いバターが生肉に延びていく様は、いつか誠の裸の背中にマッサージを施した感触を思い出させた。どこまでもなめらかに、バターは面白いように浸透していく。ところどころ小粒の突起がある、ぬるぬると滑る七面鳥を両手で抱えアルミケースに収め、天板に載せオーブンを開ける。

青い炎で照らされたその空間は、サーカスの火の輪のようだった。潜りぬけた先では、大勢が拍手を以て出迎えてくれる気がした。頬が熱い。里佳はようやく、七面鳥をオーブンに送り込んだ。扉を閉めると、安堵の大きなため息が出た。

ここから約3時間。手を洗いながら、息を大きく吐く。時々オーブンを開いて、溶かしバターを塗りながら、あの巨大な肉の塊の隅々まで、火を通さねばならない。焼きが甘かったら、誰かが身体を壊すかもしれないのだ。かといってパサパサな肉では申し訳が立たない。そのためには丹念に隅々まで、溶かしたバターを塗り込めなければならない。

一膳分残したスタッフィングを、立ったままスプーンで口に押し込む。ねっとりしたレバーが行き渡ったもちもちのご飯は、そのままでもうっとりするような味わいだった。小鍋でバターを溶かし、洗いものをし、冷蔵庫の周囲をアルコールで拭き清める。

スマホのタイマーが、1時間が経過したことを告げる。ミトンを両手にかぶせると、里佳は恐る恐る、オーブンを開ける。全体は肌色に染まり肉質はパンと張っているが、焼き色はまだまだ付いているとは言えない。しかし、しっとりと汁をにじませ、じゅくじゅくと音をさせている一羽の七面鳥は、もはや不安要素でいっぱいの生肉の状態を脱している。

里佳は途方もなく心が落ちつくのを感じた。ケーキ用の刷毛をとると、金色の溶かしバターをゆっくりと塗り込めていく。熱い肉は貪欲にそれを吸い込んでいった。驚くべきスピードでバターが消えていく。オーブンに再び肉を収めてしばらくすると、その日、最初のインターホンが鳴った。

(中略)

伶子はマッシュポテトや手作りのホットビスケットを紙皿に並べていく。やがて水島さん夫妻と5歳になるお嬢さん・美希ちゃんが到着した。

「うわー、いい匂い!!」

と部屋に着くなり、美希ちゃんが叫ぶ。窓の外には夏の夕暮れが広がっていた。彼女の言う通り、部屋中に焦げたバターと、チキンよりはるかに深みのある焼けた肉の匂いが漂いはじめていた。

めいめいがワインやジュースなどの飲み物を手にし、持ち寄ったお惣菜やチーズをつまむ。すいかを抱えた有羽がやって来た。里佳がオーブンにつきっきりでも、自然とパーティーは始まっていた。伶子がまるで医療助手のように、冷たい飲み物や一口サイズのサンドイッチをこちらまで運んできてくれた。

2度目にオーブンを開け、里佳は成功を確信した。誰にも七面鳥が見えないように腰を屈めて、溶かしバターを刷毛で塗り込めていく。

最後の客となった篠井さんがやってきたのは、七面鳥が焼きあがる15分だ。

(中略)

深呼吸してミトンをした両手で、オーブンを勢いよく開ける。そこから現れた、こんがりと黄金色に覆われ、所々に濃い褐色の焼き目をつけて、じゅうじゅうと肉汁をにじませている七面鳥は、間違いなく、今まで目にした中でもっとも鮮やかで、長いこと心に思い描いた形が具現化している、すべての成功の象徴のような光景だった。

(中略)

「七面鳥が焼きあがりました! 伶子、焼き汁をグレイビーソースに足すの手伝って!」

里佳はその赤ん坊ほどもある重たいアルミ皿を抱え上げ、皆の中に運んでいく。お世辞ではないことはすぐにわかる、大きな歓声が上がった。誰もが目を輝かせている。スマホを向ける者が何人もいる。

「すごーい!! ねえ、これ、どうやって切り分ける?」

(中略)

「マーサ・スチュワートの感謝祭ターキー切り分け動画を見つけました。これでイケるかもしれません」

(中略)

焼き汁にまみれたタコ糸がくるくると外された。まずは脚を切り取られ、胸の上部が削がれる。ナイフさばきにまったく無駄がない。ぱりっとした褐色の皮から中身が現れ、湯気が上がる。思ったよりずっとみっしり肉が詰まっていることに驚いた。母がほうっとため息をついた。まるでなめらかな桃色のハムのような断面である。傍の紙皿に、様々な部位の肉が積み上がり、はしばみ色の骨が外される。七面鳥の骨格が、ようやく里佳にも理解できるまでになった。こうしてみると、手を入れた時は無限に思われた空洞はとても小さなもので、スタッフィングで占められた容積は全体の5分の1以下ほどである。

部屋中にこってりとしたバターの甘さと、香ばしい匂いが立ち込めている。

(中略)

乾杯、と紙コップをぶつけ合い、誰もがもう我慢ができなくなったように競い合って肉を口に運ぶ。

「七面鳥って初めて食べたけど、なにこれ、めちゃくちゃ美味しいっすね!!」

北村が普段とは別人のような、興奮した声を上げた。皆、口々に感嘆した。

「チキンとも鴨とも違う感じ。香りがあってやわらかくて。旨味が濃くて」

「皮が北京ダックみたいにぱりぱりして、身はしっとりしてるね」

「こんなの、初めて食べる。中の詰め物、絶品じゃない? これ全部、一から作ったの? レシピ知りたい! あとで教えてよ」

里佳は一番最後にフォークを取り、切り分けられた肉を噛みしめる。淡くピンクがかったそれは、十分に火が通っていて、まずはほっとした。大量の溶かしバターを吸い込んだせいもあってか、難なく噛み切れる柔らかさだ。落ち葉を踏みしめながら歩いている時のような独特の香り高さと、澄んだ肉汁で口の中がいっぱいになる。七面鳥のエキスとバターを吸って重たくなった、もち米とひき肉、松の実たっぷりの詰め物は、吸い付くようなもっちりとした舌触りで、詰める前とは別物のような、ずっと食べ続けていたい豊かさを凝縮した味わいだった。

「なんだか、ごちそうを食べてる感じがするなあ」

と美希ちゃんはグレイビーソースで汚れた顔をほころばせ、そう言った。

(中略)

伶子の仕上げたグレイビーソースはみんなの手から手へと渡っていく。焼き汁をたっぷり足したそれはこってりとこくがあり、すべての部位の旨味を抽出したようだ。伶子のホットビスケットに吸わせると、ほろほろした生地と汁気がたまらない。あっという間に両方が消えていく。

 

いつの間にか、誰もがラグに手足を投げ出し、お腹を突き出すことに躊躇がなくなっている。母が久しぶりに酔ったのか赤い顔で、こう言った。

「はあ、この満足感。しかも胃もたれしないのがいいわね。本当に美味しかった」

「いわば感謝祭の翌日がメインディッシュみたいなところもあるんだって。ほぐした肉の残りとマッシュポテトを重ねてチーズをかけて焼いたり、ターキーサンドイッチにしたりするのがポピュラーみたい。ハリウッド映画とか翻訳小説でも登場するよねー」

(中略)

「今日はこってりだったから、あっさり和風とか、だし醤油味が気分だなあ」

「七面鳥を和風に調理するの? そんなこと出来るの?」

伶子が信じられない、といった様子で、声を上げた。

「できるよ。私がそうしたいと思えばね」

(中略)

「あ、明日、七面鳥の残りメニューを召し上がりたい方はこのまま、泊まっていってくださいね。王道ではなくて、私なりの和食になるかと思いますが」

母がうきうきした様子で、「じゃあ、泊まる!」と宣言した。

(中略)

「深い意味はなくて、単に七面鳥の朝ごはん、食べてみたいし」

(中略)

暗闇を見つめながら、明日作る料理を里佳は考え始めている。そういえば、引越し後に食べようと思って買い込んだ乾麺が流しの下にあることを、思い出した。

「そうだ、七面鳥せいろにしようっと」

(中略)大晦日、父が機嫌を損ねて以来、すっかり苦手になった味である。なのに里佳は急に、あたたかく香り高いつゆに、冷たいそばを絡めて食べるあの味がとても恋しくなった。七面鳥はバターをたっぷり吸っているが、もともとバターとだし醤油は相性がいい。和風に寄せていくことにまったく無理はない。

骨をことことと煮出してかつおだしと合わせ、醤油とみりんで味を調える。そばを茹でて、冷水でよく洗い、引き締める。熱いつゆには、わずかに残った七面鳥の肉、柚子の皮、本当ならせりが欲しいところだが、サラダに使ったクレソンをたっぷり入れよう。最後にわさびと刻みネギを添えて。

梶井はなんのために七面鳥を焼こうとしたのか。それはきっと教室の女たちと仲直りするつもりだったのだ。

柚木麻子著『BUTTER』より