たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

ドリアン『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(14)

「日本は果物にめぐまれた国で、あまり高価でもなく」という記述があり、イチゴ、白桃が挙げられているけど、今の日本は米国と比べると果物の敷居が高いと思う。こっちの人は手軽にスナックにしてるけど日本では日常食とは言えない感じ。

1年ズレこんだはずれクジの東京五輪で選手たちが、ホテルに果物がない、果物をよこせー、と言っていたし。

シンガポールについたとき、私は同船の人々と上陸して果物市場にいった。大きいの、小さいの、先のとがったの、青いの、黄色いのといろいろ種類の違うバナナが店頭にぶらさがっていたが、中に、いがいがのフットボールの球のようなものがならんでいた。それがドリアンと聞いてさっそく一つ買ってみた。

(中略)

ランチが船につくと、甲板まで出てきて、

「大変ですよ、大変ですよ」

と叫んでいる。甲板へあがって行ったら、船長まで出てきて、

「くさくて、くさくて、皆がさわいでいますから、早くたべちゃって下さい」

というので、やっとドリアンのことだとわかった。

(中略)

大いそぎでドリアンをかかえて甲板に行くと、同船の人たちが待っていて、皆「くさい、くさい」とさわぐ。甲板でたべてしまおうということになり、ボーイにかたい殻を削ってもらうと、中はみかん状のふくろになっていて、一ふくろの長さは十センチぐらいあり、フニャッとした、うすいみかん色のものなのだった。カラを削ったと同時に、一だんとくささが鼻をつき、食べられるというしろものではない。

「とても駄目だわ」

「せっかく買ってきたんじゃありませんか、たべてごらんなさいよ」

「どうぞおさきへ」

「いいえあなたこそ」

などと、みな戦々兢々としたものの、それでもふくろをひらくとどろっとしたみがクリーム状に出てきたのを、目をつむってひとくち口に入れたが、甲板からゲーッとばかり海へはきだしてしまった。

それにひきかえ、マンゴーははじめ食べたときからおいしいものだと感激した。パリの高級果物店で売っているのを義兄が買ってきてくれたのだが、大きさはマクワ瓜くらいで、緑がかったうす茶のつるつるした皮で、その厚い皮をナイフでむくと、オレンジ色の桃のようなみが出てくる。うすくて細長いタネが入っているが、タネまでしゃぶってしまうほどおいしかった。

(中略)

この前ハワイに行った時、ちょうどマンゴーのおいしい初夏だったから、食事もせずに、ひたすらマンゴーをたべた。みは桃のように柔かく、味はあんずほどあまくはなくて、ちょっとぷんと匂うのだが、またそれがマンゴーの魅力で、皮をむいて汁のだらだらたれるのにがっぷりかみつくと、ほんとうに狂おしいほどおいしく、物もいわず一つたべてしまい、まだもう一つ、もう一つと、いくらでも食べたいとおもった。そしてそのとき、私はドリアンだっておいしい筈のものなんだと思い、なんだか急におしくなった。

甲板でドリアンをたべた日はすごく暑かった、ドリアンも熱気でむれて、なまぬるくて、どろっとしてくさかった。でも、もしドリアンが冷えていて、レモンでもしぼって、落着いてたべたなら、案外たべられたのかもしれない。

福羽いちごは、ほかの国にはない形で、大きく美しく、外国人など皆びっくりしてしまう。しかし味は石垣いちごの方が上だし、パリで珍重されているフレーズ・デュ・ブワ(森のいちご)という爪の先ほどに小さい、野生の香りも高いいちごの方が、ずっとすぐれているような気がする。

白桃だってそうだ。てのひら一杯にのるくらい大きく、皮をむくとつるつるの白いみの出てくる、きめのこまかい白桃は、おいしいにはおいしいが、なんだかこくがない。むしろ、小さくて黄色みをおびて、きずも少しついている、すっぱみも少しある安い桃のほうが味がよい。

なにしろ私の年頃では、娘のころはずっと戦争だったし、その後は戦後の物資不足時代だったから、お料理の材料がひどく限られたところで、もちろん料理を習ったこともない。

パリに行って自炊生活をはじめたときは、だから毎日ハムやチーズを買ってくるか、いり卵をするか、牛肉を焼くか、とにかく簡単なものしか食べなかった。

しかし、パリに住んでいると、日本人の旅行者がくる。その旅行者は、前からよく知っているなつかしい人、紹介状を持ってくる人、パリでなにかの機会で知りあう人といろいろだが、その誰もがお茶づけを食べたがっているのである。

人こいしい私は、パリにいらした今さんを例によって食事におよびしたのだ。その夜はカレイのお煮つけをするつもりで、小ぶりのカレイを買っておいた。そこまではよかったのだが、まず煮て表面が白っぽく煮えたようにみえたから、出してみたら半分生煮え、あわててまたおなべにかえして、こんどはグツグツとよく煮たら、たいして新鮮でなかった小さいカレイは、身がくずれて、もやもやと煮汁の中にちらばって、骨だけいやに堂々とおなべに残ってしまった。やり直したくとも魚はなし。

「はい、カレイの煮つけ」

とやけ半分、度胸をすえて、おなべごとテーブルに出したというわけだった。

石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』より