たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『幸福な食卓』から

初めて手に取った瀬尾まいこ氏の小説。大変よかったのだが、兄妹で「愛おしい」「ぎゅっとしたい」と言い合うのが気持ち悪い。フィクションだけど。フィクションだから。

最近、空腹だけど何も食べたいものが思いつかない、無理には食べたくない、みたいな状態が続いているのだが、ここに書かれているグラタンやスープ、シュークリームだったら食べたい。

いつも一番に起きて食卓に着いている父さんが、朝食を食べはじめる時間になっても姿を見せなかったのだ。
「どうする?」
私は慣れない光景に落ち着かなかった。
「いいじゃない。2人で食べよう」
直ちゃんは、いつものペースでコーヒーを入れてテーブルに着いた。
(中略)
「でも変な感じ」
私も自分の分の牛乳を入れて直ちゃんの隣に座った。

「当然でしょ? 子どもにご飯を食べさせるのは母親の義務なのよ」
「そうだったのか」
母さんは素直に納得すると、フライパンを火にかけた。
「何作ってるの?」
私はフライパンの中を覗いた。蕎麦と白ねぎが炒められている。白ねぎの焦げる匂いがそそられる。
「この中にね、醤油と生クリームを入れるの」
母さんは冷蔵庫から生クリームを出してきた。
「えー。気持ち悪い。蕎麦と生クリームって」
「でしょ。でも、おいしいって宮崎さんが言ってたのよね。ほら、あっという間に出来上がり」
(中略)
私は大きさの違う皿を2枚用意し、緑茶を入れた。母さんはほとんど何も持たずに家を出たから、食器が少ししかない。
「どう?」
私は先に口にした母さんに訊いた。生クリーム蕎麦は一応おいしそうな匂いがしている。
「さあ」
母さんはにやりと笑った。
自分で食べてみなさいってことだ。父さんはたわいない質問にでも、丁寧に正確に答えてくれるけど、母さんは私が子どもの頃から、答えを明かさない。
私はちょっと戸惑いながら、薄茶色の不思議なお蕎麦を口にした。
「あれ? おいしいかも」
「うん。おいしいらしいね」
母さんが答えた。
「醤油と生クリームって合うんだねえ」
私は妙に感心した。
「白ねぎがポイントなのよ」
「意外な組み合わせでできる美味さって癖になる」
私は感想を述べながら、生クリーム蕎麦をお代わりした。
一人暮らしを始めてから母さんの料理のバラエティはすごい勢いで広がった。みんなで暮らしていた時から料理は上手だったけど、食卓にはいつも定番のありきたりなものが並んでいた。1人になった母さんの料理は創意工夫がすばらしい。
「家族のごはんっておかしなもの作れないでしょ」
母さんが言った。
「そうかなあ」
「そうなのよ。栄養のバランスと確かなおいしさの保証が大切なのよ」
母さんは首を傾げる私に断言したけど、そんなことはないはずだ。父さんは融通が利かないところはあるけど、人の作るものに文句を言うタイプではないし、直ちゃんは何を食べてもおいしい人だから。
(中略)
「父さんが父さんを辞める話聞いた?」
私は、そばを食べ終えてお茶をおいしそうに飲んでいる母さんに訊いた。

「ああ。毎日仕事してると、周りをゆっくり歩くこともなかっただろう。歩いてみるとおもしろいね。おいしそうなパン屋を見つけたから、フランスパンを買ってきたよ」
父さんはしゃれた紙包みを机に置いた。
「なんか父さんがパン買うなんて、すごいね」
「ついでに、母さんの、もとい、妻の職場に行って和菓子も購入してきた」
「ちっとも、らしくないね」
(中略)
「さあ、夕飯にしよう。仕事もせず、ふらふらしていたらおなかがすいてしまった」
父さんはのんきなことを言うと、食卓に向かった。
「夕飯って、まだ早いし、何もないよ」
家を出てからも、夕飯はほとんど母さんが届けてくれる。ただ、金曜日は母さんのパートが遅いので、直ちゃんか私が作るのだ。
「桜餅と、フランスパンとでいいじゃないか」
父さんが言った。
「夕飯に?」
私は驚いた。
我が家は朝食にかぎらず、ちゃんとした食事をとる。
母さんがいなくても直ちゃんの職場の野菜などでバランス良い食事をしている。ファーストフードどころか、インスタントやレトルトのものすらあんまり食べない。
「いいね」
直ちゃんが賛成した。直ちゃんは結局何でもいいのだ。
父さんは桜餅を20個も買っていた。知っている人が売っていると思うとついつい買いすぎたのらしい。
桜餅の夕飯はちょっと悪いことをしているようで、わくわくした。なんだか、小さい時、夜中に直ちゃんとこっそりアイスクリームを食べたときのような感覚だ。私と直ちゃんは同時にそれを思いだしてくすくす笑った。甘いものが苦手な父さんは渋いお茶を何回もお代わりしながら桜餅をせっせと食べた。
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直ちゃんはグレープフルーツを剥きながら言った。冷やしておいて、食後のデザートに食べるためだ。グレープフルーツは半分に切って食べる方が手っ取り早いけど、直ちゃんはちゃんと一房ずつ剥く。
「それまで父さんに戻らないといいなあ」
「もう辞めたんだから戻らないんじゃないの?」
グレープフルーツを剥きおえた直ちゃんは皮をそこら中に置いた。部屋がさわやかな匂いで満ちる。どちらかというと、朝の匂いだけど。
「そうなのかな? 2、3ヵ月で父さんに戻るのかと思った」
「どうだろうね。ま、どっちでも一緒だって。さ、おなか空いたし、先にご飯食べちゃおう」
働きはじめてから、直ちゃんは食欲が2倍に増えた。そのことをすごく嬉しく思っているらしく、直ちゃんはしょっちゅうおなか空いたを連発する。
今日の夕飯は母さんにもらった鰆の西京漬けと切り干し大根の煮物とつぶしたじゃが芋に塩とこしょうと酢を混ぜただけのサラダ。それと炊きたてのご飯に生卵。
昔は生卵は苦手だったけど、直ちゃんが青葉の会の卵を持って帰ってくるようになって、欠かさず食べるようになった。青葉の会では鶏を平飼いにしていて、よく動かしているから卵がすごくおいしい。口の中でとろんと柔らかい味が広がる。
「いただきます」
直ちゃんと私は、2人の時にも隣同士に座る。母さんが家を出てから、2人で夕飯をとることが多くなって、向かい合わせに座った方が広々と食卓を使えて便利だなと薄々勘づいているのだが、どちらも実行に移さない。
「どっち?」
濃い茶色の卵と薄茶色の卵を直ちゃんが両手に持って見せた。
「こっち」
私は濃い色の卵を選んでお椀に割った。
「なかなか良い選択だね」
直ちゃんは黄身の具合を見ながら言った。白身の粘りがなくなるまでよく混ぜて、醤油をほんの少しだけ入れる。直ちゃんは醤油をかけずにそのままご飯にかける。
「こればかりは何度食べてもおいしいね」
本当にそう思う。直ちゃんの持って帰ってくる野菜も、母さんの新しい料理もおいしいものはたくさんあるけど、たいてい食べているうちに味になれてしまう。だけど、卵かけご飯は毎回おいしくて感動する。
「今日のはクリスティーヌと正子の卵を持って帰ってきたから」
直ちゃんが言った。

父さんが浪人生になるということより、今日の給食の献立の方が参った。先週塩焼きで出たところなのに、今日はみそ煮となって鯖が登場する。
うちの学校は海が近いせいか、1ヵ月に3回は給食に鯖が出る。鯖は腹の部分がぶよぶよしているし、皮の模様が気持ち悪くて私は大嫌いだ。
「でも、給食の鯖はほとんどノルウェーからの輸入なんだぜ」
坂戸君が言った。
「じゃあ、なんでこんなに出るの?」
「安いし、形も均等なのが多いから給食向きなんだ」
「ふうん」
やっぱり坂戸君ってすごいなと思う。ちっとも勉強できないくせいに、彼の頭は実生活向きの知識が詰まっている。
(中略)
「まあ、とりあえず今日のところは俺が食っとくわ」
「ありがと」
坂戸君は好き嫌いが全くない。給食を必ず残さず食べる。特に魚は好きみたいでよっぽどでない限り骨まで食べてしまう。私はその攻撃的な食べっぷりにすっかり心を奪われてしまっていた。

今日の朝食は豪華だ。当人は不在ではあるけれど「母の日」だから。
母さんが持ってきてくれた春巻きや鮭のクリームスパゲティ、直ちゃんが職場から持って帰ってきた新鮮な野菜や果物が無秩序に並んでいる。我が家は昔から記念日は豪華な朝食をとる。中華とかイタリアンとか和食とかジャンルを決めないで、むやみやたらにみんなの得意料理や好物を並べる。
「いいねえ」
父さんが嬉しそうに言った。
「夜遅くまで勉強してるから、朝、おなかすくんだよね」
(中略)
「葉が開くまで待っててね」
父さんが緑茶、私が牛乳、直ちゃんがコーヒーかカフェオレ。いつも飲むものはバラバラだけど、今日は直ちゃんが本格的に紅茶を入れてくれた。私とは違って季節や時間帯に感情も体調もまったく左右されない直ちゃんはいつでも機嫌がいいけど、今朝はいつも以上にウキウキしていた。

「パン焼けたよ」
直ちゃんはおはようの代わりにそう言った。
「おはよ」
私はトースターからパンを取り出して、席に着いた。
「調子悪いの?」
いつもは食パンにマーマレードかバターを塗るけど、今日は何もつけなかった。直ちゃんがバターもマーマレードもたpっぷり塗りながら訊いた。

私は昼前から友達の家に出かけていた。みゆきちゃんの誕生日で昼ご飯をごちそうになった。フライドチキンとちらし寿司を食べて、みんなで人生ゲームをした。誕生日プレゼントのお返しにかわいいシャーペンをもらった私はうきうきしながら、夕方家に戻った。

「そうそう、お菓子があるのよね」
母さんは今さっき作ったというプリンを出してくれた。私はありがとうを言って受け取ったが、まったく食欲がなかったし、プリンの甘いバニラの匂いは胃を刺激した。母さんはさっき父さんとも食べたんだけど、と言って自分の分も用意して席に着いた。
「うちの家庭って崩壊してるのかな?」
私がプリンにスプーンを突き刺しながら言うと、母さんが目を丸くした。

朝食はクロワッサンでバターの濃い匂いに気持ち悪くなった。普段の私はクロワッサンは大好きだけど、まったく口に入れられなかった。
「少しは食べないと」
父さんは心配そうな顔をした。
「わかってる」
私は直ちゃんが剥いてくれた瓜を食べようとしたけど、やっぱり胃が拒否をした。

「ね、桜餅買って帰ろう。母さんの店で。また、30個ぐらい」
「今の季節じゃ売ってないんじゃない?」
「じゃあ、みたらし団子でいいや」
私は父さんの手を引っ張った。
私たちは閉店間際の母さんの店で、安くなったみたらし団子や三色団子をどっと買い込んだ。たくさんの和菓子を抱えて家に帰ると、直ちゃんのギターが響いていた。
(中略)
「みたらし団子、冷めるとまずいしさっさと食べちゃおう」
「じゃあ、直ちゃん呼んでくるね」
私が2階に向かおうとすると、父さんが止めた。
「別にいいだろう」
「そっか。そうだね」
いつもいつもみんなが食卓にそろう必要はない。父さんと私は2人でみたらし団子を食べた。

直ちゃんは肩をすくめると、自分の席に着いた。最近はほどんと直ちゃんが夕飯を作っているのだけど、今日は落込んでいるだろうと気を利かせて、父さんと2人でスペシャルサラダを作った。ジャガイモや玉葱やキャベツ。春の野菜を何でも細切りにして、その上に卵の黄身とカリカリに焼いたベーコンをかけただけのサラダ。これだけで十分お腹がいっぱいになる。直ちゃんは失恋すると大量に野菜を食べたがる。病気や挫折をすると、身体がビタミンを欲するらしい。

「さあさあ、夕飯にしよう」
香水女を気に入ったのか、父さんはご機嫌に言った。
こんなことなら、ビーフシチューなんて作るんじゃなかった。今日は朝から直ちゃんと2人でシチューを煮込んでおいた。いつもと違って、直ちゃんの仕事場の虫食いだらけの野菜だけじゃなく、ペコロスや芽キャベツなどの可愛い野菜まで入れたのに。香水女にそんな繊細な心遣いなどわかるわけもない。私はがくりと肩を落とした。
「わあ。おいしそう」
香水女はシチューを見て、感嘆の声を上げた。「たくさん食べてね」と直ちゃんも父さんも嬉しそうに笑った。思った通り、香水女には中の野菜のことなど、どうでもいいようだった。それどころか、ご飯もシチューもお代わりまでしてきれいに平らげた。他人の家で、しかも初めて訪問する彼氏の家で、これだけ食べられるのは才能かもしれない。彼女の長所を挙げるなら、ただ一点。食べっぷりの良いところだな。そう思った。

私が油を3本差し出すと、母さんは驚いた。
「直ちゃんの彼女がお土産に持ってきたの」
「油を?」
「そう油を。6本詰め合わせのね」
母さんはずいぶん大胆な人ねと笑った。
「どう思う?」
「どう思うって?」
「そんな人だめじゃない。すごく嫌な女だった」
「ふうん。そうなんだ」
「そうなんだって他人事みたい」
私はふくれながら、母さんが作ってくれたねぎ焼きをつついた。母さんは私が来る時には必ず何かおやつを作っておいてくれる。離れて暮らすようになって、サービス満点になった。前までおやつはホットケーキやプリンだったのに、受験生になってからというもの、ねぎばかり食べさせられている。ねぎは頭にいいらしいが、さすがに飽きてきていた。

「普通の体型の人間が思いつくことは全て体験済みだよ」
「そっか。じゃあ、野菜は? 野菜ばかり食べるの」
「肉が好きなんだ。野菜がいいのはわかってても、味けなくって」
「違う。本当の野菜はすごいおいしいんだよ。兄がね、青葉の会ってところで働いてるの。無農薬野菜を作ってるんだけど、そこの野菜って形は悪いけど、みずみずしくて甘くて、味もはっきりしてて、すごいおいしいの」
私は会ったばかりの山田さんに一生懸命に説明をした。
「青葉の会って聞いたことあるよ。それって宗教団体じゃないの?」
山田さんが言った。
「宗教でも何でもいいのよ。だまされたと思って、食べてみて。最初はドレッシングとかつけて食べてもいいけど、そのうち、何もなしで食べられるよ。すごく身体にいいよ」

私は顔をしかめながらも、直ちゃんが作ってくれたオムライスを口に入れた。オムライスと言っても、夕飯の残りの野菜炒めとご飯をひっくるめて卵に混ぜて、焼いただけのものだ。卵が染みわたったご飯はふんわりとしておいしい。
母さんはできたてのフレンチトーストを私の前に置いた。もちろんフレンチトーストにはねぎが入っていない。落込んでいる時にねぎを食べて賢くなってしまうと、考えすぎてよくないから。そういう時には甘いものを食べるのに限るらしい。朝から牛乳と卵に浸しておいたというフレンチトーストは口に入れると、甘い匂いが広がった。

日曜日に駅前のケーキ屋に出かけた。気を落としているのが目に見えたのか、父さんが好きなものを買っておいでと小遣いをくれたのだ。食欲があったわけじゃないけど、とりあえず私はチーズケーキを買った。その帰り、覚えのある匂いがした。甘くて刺すような......。

翌朝、早くから起き、直ちゃんはステーキを焼いていた。台所に降りていくと、じゅうじゅうと肉の焼ける音と、油の焦げる香ばしい匂いがしていた。
我が家は、朝食はしっかりめに取る。だけど、さすがに朝から肉はきつい。
「どうしたの?」
「何が?」
「何がってお肉」
怪訝そうな私に、直ちゃんはおはよう、と言ってから説明した。
「今日は月曜日だからね」
「だから?」
「だからって、毎週月曜日は肉の日だろ」
「それは、スーパーの安売りの話でしょう? 朝から肉を食べろってことじゃないよ」
「まあまあ。座りなさい、妹よ」
言われるまま自分の席に着くと、直ちゃんが焼きたてのステーキを運んできた。ほうれん草とにんじん、潰したじゃが芋も添えてある。直ちゃんは自分の分も用意すると、私の隣に座った。最近朝食は2人で食べる。父さんは予備校の仕事が夜遅くまであるため、朝は遅い、
「佐和子。ついに中原家の兄妹も手を結ぶ時がやってきたぞ」
直ちゃんは勢いよく肉をほおばってから、意味のわからないことを宣言した。
(中略)
私も肉を口に入れた。朝からステーキを突っ込まれて、胃はびっくりしている。だけど、お肉は上手に焼けていておいしい。
直ちゃんはいつもできるだけ安い肉を買ってくる。そして、お酒やコーラに一晩漬けたり、せっせと叩いたりして、いかにおいしい肉に変身させるかに挑戦している。
(中略)
半分も食べると胃が疲れてきたので、私は肉を食べるのを止め、キャベツを生のままばりばり食べた。
我が家の食卓にはいつもキャベツを四つ割りにしただけのものが置かれている。それをみんなが好き勝手に剥がして食べる。直ちゃんの職場のキャベツは農薬を使っていないから、どこからかじっても安心だ。春のキャベツは何もしなくても甘くておいしい。それに、キャベツをかじると、口の中も胃の中もすっきりする。
(中略)
直ちゃんはそう言うと、また肉をほおばった。目覚めてしまうと、朝から重いもの食べて、妙な話をするんだなあ。私は感心しながら、キャベツばかり食べていた。

「すごく深刻に夕飯作るんだね」
「うん。今日はこの、イタリア風いかとキャベツの春の炒め物というのを作るよ。何とも、4月らしい料理だろ」
直ちゃんは雑誌の写真を私に見せると、台所へ向かった。
一緒に暮らしていた頃、母さんは本や料理番組で研究し、バランスが取れたおいしい食事を作ってくれた。だけど、今は我が家では誰もそんなことはしない。
一人暮らしを始めた母さんは、自分だけのためだからと気ままに自由に好きな物を作っている。私達の家でも、作る人が食べたいものを食べたいように作る。直ちゃんが農業をしているお陰で、おいしい食材はたくさんある。どう調理したところで、失敗することはめったにない。それが我が家のご飯だった。だから、本を片手に料理をする直ちゃんはとても神経質に見えた。
いかとキャベツの炒め物は正しくおいしい味がした。でも、材料に載っていたバジルが家になかったため、直ちゃんがわざわざ買いに行き、出来上がるまでにとても時間がかかった。
「バジルがなくたって構わない」と私が言い、「バジルの代わりにパセリを使えばいい」と途中から台所へ来た父さんが言った。それでも、直ちゃんは「バジルはバジルだ」と頑固にバジルを買いにいったのだ。
「まあ、バジルを買いに行っただけあって、おいしい気はするな」
父さんは細かい味などわからないくせに言った。
「バジルの匂いがイタリアって感じだね」
私もパセリで十分だと思ったけど、直ちゃんの苦労をねぎらうためにほめておいた。

母さんは文句を言いながら、牛乳のたっぷり入った紅茶を入れてくれた。
(中略)
「あっそう。まあその辺のことは大浦君が何とかするだろうしね。じゃなきゃ一緒にいる意味ないもの。つまらないことは大浦君に任せておいて、ケーキでも食べようか」
母さんはチーズケーキを冷蔵庫から出してきた。
クリームチーズと卵と生クリームをミキサーにかけて、そのままオーブンで焼いただけのシンプルな物で、最近の母さんの得意料理だ。昨日も一昨日も家に届けてくれた。
「またこれ?」
「昨日のとは違うのよ」
「どこが?」
私はケーキを口に入れてみた。まったく違いがわからなかった。
「チーズの種類が違うの。昨日は明治のクリームチーズだったけど、今日は森永なのよ」
「何、そのわかりづらい変化は。そんなのどっちにしてもクリームチーズでしょ? わかるわけないよ」
「でも、森永と明治の社員にとっては大問題よ」
そう言いながら、母さんもケーキを口に入れた。
「本当、さっぱりわからないわね。昨日とは決定的に違うのに。次、佐和子が来る時には、雪印のチーズで作るわ」
「あっそう」
昨日と今日の味の違いはわからないけど、チーズケーキはとてもおいしかった。

家に帰ると、机の上にシュークリームが乗っていた。
「これ、どうしたの?」
「ヨシコさんが家に来たんだ」
「うそ」
「本当」
(中略)
でも、小林ヨシコのお土産はサラダ油でも洗剤の詰め合わせでもなく、私と直ちゃんが大好きなシュークリームだった。
「ところでさ、私達の家族を復活させるって計画はどうなったの?」
私達は夕飯の用意もしないで、のんきに紅茶を飲みながら、シュークリームをほおばった。
(中略)
「それより、このシュークリームって、かなりおいしいな」
直ちゃんは3個目のシュークリームを食べながら言った。
「確かにね」
「パリパリの皮のやつ多いけど、俺はこうやって、クリームと一緒になってしっとりしちゃうシュークリームの方が好き。どこで買ったのかなあ。この辺のケーキ屋のじゃないよな」
小林ヨシコがくれたシュークリームは乱暴に紙袋に詰め込まれていた。だから、形が悪く、つぶれてクリームがはみ出ているものもある。
「あれ、何か入ってるよ」
私が食べたシュークリームの中に、堅い物が入っていた。舌でたぐり寄せて口から出してみると、それは卵の殻だった。
「これってさ」
「ヨシコさんらしいね」
私達は、夜がどんどん近付くのも構わず、不格好なシュークリームを2人で飽きるまで食べつづけた。

「鶏のほうが愛嬌があるし、味も日本人向けだしさ」
「味って、まさか食べる気?」
「もちろん。食べなきゃ意味ないよ。クリスマスまで丸々太らせて、ヨシコさんと一緒にローストチキンにして食べるんだ」
「それって、相当怖いよ」
「なんで。佐和子だって、去年、一緒にクリスティーヌ食べたじゃん」
確かに昨年のクリスマス、我が家で飼っていた鶏を絞めて、みんなで食べた。育てたものを食べることはありがたいことだと、私も思った。

父さんはコーヒーだけじゃなく、プリンを冷蔵庫からとってきた。一人で何かを食べたり飲んだりすることに慣れていない父さんは、自分が飲むときには必ず私の分のコーヒーも用意してくれる。
「父さんって、甘いもの苦手だったのにねえ」
私は父さんが出してくれたプッチンプリンを開けながら言った。プッチンプリンは甘ったるくて私は嫌いだけど、父さんはプリンを買うとなるとこれを買う。いかにもプリンという風体で、スーパーに並んでいると、むしょうに食べたくなるらしい。
「勉強してると、甘いものがほしくなるんだよなあ。ほんの少しでもいいんだけど、やっぱり甘いものを食べると救われる気がする」
父さんは大げさなことを言いながら、おいしそうにプリンを口に入れた。
(中略)
父さんとどうでもいい話をしながら、牛乳がたっぷり入ったコーヒーを飲む。追われるものは何もなく、毎日が自分の好きなように使える。1年の終わりに向けて時間はとてもゆったりと流れていた。

「こんなに着々と幸せに近づいていくのって、ちょっと不思議な感じ」
クリスマス・イブの前日、私は父さんとコーヒーを飲みながら、なかなかすてきに仕上がったマフラーを何度も眺めていた。
「やっぱりイエス・キリストがいるんだろう。毎年、なんだかんだ言ってもクリスマス前後の世の中は平和だ。それより、父さんや直にはないのか?」
「ないのかって何が?」
「何がってマフラーに決まってるだろう。父さんたちには編んでくれないのか?」
父さんはマフラーなんて巻いたことがないくせにそう言った。

うだうだ考えてると、ノックが聞こえて直ちゃんが入ってきた。オムライスと牛乳が載ったお盆を藻っている。
「昨日から何も食べてないからさ」
何も言ってないのに、直ちゃんは言い訳するように言った」
(中略)
「だったら、少しオムライス食べなよ。結構おいしいから」
直ちゃんがお盆を私のほうへ差し出した。お腹はすいているはずなのに、ケチャップの甘酸っぱい匂いに気分が悪くなって、私は思わず顔を背けてしまった。
「大丈夫。......お腹すいたら自分で下へ行くから」
「ほんとに?」
「うん。本当」
「それは信頼できる筋の情報?」

朝ごはんは半熟卵と、ほうれん草とベーコンのサラダで、私はどっちも大好きだったけど、少し口にするだけで胃が気持ち悪くなった。

「さあ、食べましょう。今日は父さんと力を合わせて料理したのよ」
母さんがにこやかに言って、みんなが手を合わせた。
夕飯は野菜とひき肉を何重にも重ねて、上にチーズを乗っけて焼いたグラタンと、きのこご飯と、たまねぎがたっぷり溶けたスープだった。こんがり焼けたチーズ、きのこの匂いがするご飯、甘いたまねぎのスープ。どれも私の好きなものだ。
「なんだか平茸とかエリンギとか調子に乗ってキノコをどんどん突っ込んだから、ご飯よりキノコのほうが多くなっちゃったのよね」
母さんが陽気に言って、父さんが少し笑った。
母さんがいるせいか父さんも直ちゃんもいつもより少しにこやかだ。食事はどれもおいしいらしく、ご飯もスープも何度かおかわりがされていた。でも、私の箸はちっとも進まなかった。

また同じように朝がやってきた。私がのろのろと重い身体で降りていくと食卓の雰囲気が違う。私のせいでどんより重いのはいつも通りだけど、なんだか華やいでいる。よく見ると、テーブルに並んでいるのは御節だった。
そうだ。知らない間に、着々と時間が流れるどころか、年まで変わっていたのだ。
「いやあ、今年はデパートの御節料理を注文しちゃったよ」
父さんが陽気に言い、直ちゃんが、
「たまにはこういう高級料亭のもいいかもね」
と、嬉しそうにお重を開けた。
(中略)
「まあ、いいじゃん。早く食べよう」
直ちゃんはさっさと席に着くと、私の分まで小皿に一通り御節を盛り付けてくれた。
「でも......」
「きっとすぐ帰ってくるさ」
父さんも箸を手にした。みんながこともなげに言うので、私は腑に落ちないまま、自分の席に着いた。
数の子、黒豆、くわい、田作り。幸せになる品々が御節の中には詰っている。去年も私はちゃんと御節を食べていた。だけど、幸せになんかならなかった。
父さんも直ちゃんも、それしか言うことがないかのように、何度もおいしいと言った。確かに高級料亭の御節は上品で奥深い味がしたけど、母さんの作る御節のほうがずっとおいしい。私はそう思いながらも、やっぱり一通り幸せになれそうなものをきちんと食べた。

ヨシコに渡された紙袋はずっしり重く、甘い匂いがする。
「シュークリーム。12個入ってるんだ。でも、全部あんたが食べたらいいよ」
私は突然ヨシコにシュークリームをプレゼントされ、ますます首
(中略)
「いいよ。とにかくちょっとでも復活してよ。あんたが元気になるまで、ローストチキンもお預けなんだからね」
ヨシコはいたずらっぽく笑うと、部屋を出て行った。
私はヨシコが帰るとすぐに、シュークリームを袋から取り出した。すごく甘いバニラの匂いがする。私はさっそくシュークリームを口に入れた。久しぶりに食べるお菓子はとても甘く、とてもおいしく感じた。2個食べたらお腹がいっぱいになって、3個目からはクリームが濃くて吐きそうになった。でも、私はまじめにシュークリームを片付けた。飲み物がなくて途中で苦しくなったけど、12個ともきちんと食べた。
ヨシコのシュークリームはクリームはそこそこおいしかったけど、皮は膨らみが悪くてかすかすだった。何より12個中、4個に卵の殻が入っていたのには参った。
ヨシコは不器用だけど、シュークリームはよく作って我が家に持ってくる初めこそ、殻が入った不恰好なシュークリームを持ってきたが、最近のヨシコのシュークリームはとても上手なものばかりだ。
私もシュークリームを何度か作ったことがある。それほど難しくはないけど、失敗の多いお菓子だ。きっと、ヨシコはいつも苦労してたんだ。今日は直ちゃんじゃなく私のために作ったから、こんなだけど。
シュークリームのおかげで胃は気持ち悪くなった。だけど、たくさん食べたせいか、甘いものを身体に入れたせいか、少しだけ元気になったような気がした。

夕飯はマーボー春雨、揚げ出し豆腐、鰯の蒲焼だった。昨日の夕飯はエビチリで、一昨日は鮭のクリームグラタンだった。この2週間、朝も昼も夜もメニューは私の好物ばかりだ。
「この豆腐は予備校の帰りに商店街の豆腐屋で買ってきたんだ。いつものよりずっとおいしいぞ」
父さんがそう言いながら揚げだし(ママ)豆腐を口に入れた。私も真似して豆腐を口に入れようとしたけど、あまりにお腹が膨れていてうまく飲みこめなかった。
「いいよ、無理しなくて」
「揚げ出しにしたのがよくなかったのかな。冷奴にした方が食べやすかったかもな」
心配そうな父さんと直ちゃんに、私はちょっと吹きだしてしまった。
「どうした?」
2人とも驚いて私の顔を覗きこんだ。
「本当はね......。お腹いっぱいなんだ」
「お腹がいっぱいって?」
「さっき、シュークリーム食べたから」
「へ?」
「小林ヨシコ特製の超濃厚なやつ。一気に12個も食べちゃったんだ」
私はそう告白して、くすくす笑った。
「どうして独り占めするんだ。1個ぐらいまわしてくれてもいいじゃん」
直ちゃんも笑った。
「でも、12個中、4つに卵の殻が入ってたんだよ。ひどいでしょ?」
「そっか。佐和子用だったんだな」

「まあいいや。これ、あげる」
私はきれいに包んだ箱をテーブルの上に置いた。
「何これ?」
「小林ヨシコ特製シュークリーム。今日一緒に作ったんだ」
今日、朝からヨシコの家でシュークリームを作った。小林ヨシコは教えてやるって誘ったくせに、「見て盗め」と言ったきりで材料の説明もなく、勝手に作りはじめた。仕方ないので、私も横目で自分の作り方でシュークリームを作った。なのに、出来上がったとたん、これはヨシコ特製シュークリームだと勝手に命名されたのだ。
(中略)
母さんは神妙な顔をしてうなずくと、さっそくシュークリームを口に入れた。
「うん。おいしい」
「ほんと?」
「うん。ヨシコさんがいい人だってちょっとわかる気がする」
「それはよかった」
私はシュークリームには手をつけず、母さんが入れてくれた紅茶を飲んだ。さすがにこないだ12個も食べたから、シュークリームはもうこりごりだった。

瀬尾まいこ著『幸福な食卓』から

「ぶかっこう」と「あげだし」に表記の不一致あり。何も問題ないけど。