たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『そして、バトンは渡された』(1)勝つ丼

日本食レストランでバイトをしていたとき、かつ丼は大人気だった。でも、アメリカ人、結構ご飯を残すんだよな〜。あの店の飯比がおかしかったのかな〜。

こないだ3年ぶりに日本に行って、なか卯の丼(かつ丼ではなく牛玉丼)を食べられたのはほんとうに嬉しかった。

人生の一大事を控えているんだから、ここはかつ丼かな。いや、勝負をするわけでもないのにおかしいか。じゃあ、案外体力がいるだろうから、スタミナをつけるために餃子。だめだ、大事な日ににんにくのにおいを漂わせるわけにはいかない。オムライスにして卵の上にケチャップでメッセージを書くのはどうだろう。また優子ちゃんに不気味がられるのがおちかな。ドリアに炊き込みご飯にハンバーグ。この8年で、驚異的に増えた得意料理を頭に並べてみる。何を出しても優子ちゃんは、「朝から重すぎるよ」と言いながらも残さず食べてくれるだろう。でも、きっと、今日は話が尽きない。冷めてもおいしくて、簡単に食べられるものがいい。
「卵料理はみんないろいろ作ってくれたけど、森宮さんのオムレツは固まり具合がちょうどよくて一番おいしい」
いつか優子ちゃんはそう言っていたっけ。そうだ。ふわふわのオムレツを挟んだサンドイッチにしよう。そう決めると、バターと牛乳、そして、たくさんの卵を冷蔵庫から取り出した。

長ねぎにしいたけに小松菜に豆腐。なんでも入れたカレイの煮つけを口に入れながら、私は言った。
「どうして?」
いつでもお腹が空いている森宮さんは、仕事から帰ってくるなりスーツのままで夕飯を食べる。堅苦しいしスーツが汚れるから着替えればいいのにと言う私を無視して、今日もご飯をかきこんでいる。
(中略)
「(中略)そんなことより、この長ねぎとろっとしてておいしいね」
「そりゃどうも」
森宮さんは私が夕飯の支度をしたときには、必ずほめてくれる。
「優子ちゃん、発想は妙だけど、食材を組み合わせるのはうまいよな」
「適当にほうり込んでるだけだよ。一緒に調理するとなんでもおいしくなるから」
魚か肉を焼いたり煮たりするときには、野菜や豆腐、なんでも一緒に入れておけば、一品作るだけでバランスのいい食事に見える。というのは、以前共に暮らしていた梨花さんに教わった。料理は好きだけど、学校から帰って作るのは面倒で、平日はなんでも突っ込んだ煮物や炒め物を作ることが多い。食材が何種類か入っているとはいえ、おかずが一品なのはどうかと思うけれど、森宮さんはいつも満足そうに食べてくれる。
(中略)
森宮さんは煮つけの残った汁をご飯にかけながら言った。森宮さんはいつも驚くほど、きれいに食べる。
(中略)
「まあいいや。あれこれ考えてたら疲れちゃった。そうだ、デザートに昨日買っておいたプリン食べようっと」
(中略)
「ごめん、今朝食べちゃった」
と、森宮さんが告げた。
「え?」
「プリン、食べちゃったんだ」
申し訳なさそうに頭を下げる森宮さんに、「大丈夫。2つ買っておいたから」
と私は言った。父親らしくなくても共に生活しているのだ。お菓子を買うときは、ちゃんと森宮さんの分も用意するようにしている。
「それがさ、1個食べてみたらおいしくてついつい2個とも食べちゃったんだ。朝、無性に甘いものが食べたくなったんだよね」
「2個とも? 朝から?」
「そう。俺、朝からなんでもいけるんだ。ほら、餃子でもグラタンでも食べてるだろ」
森宮さんの食欲など知ったことじゃない。プリンを食べようと意気込んでいた私は、がくりとした。
「食後に食べようと思って買っておいたのに」
「悪い、悪い。そうだ、こないだ会社でお土産に信玄餅もらったのが鞄に入ってたはずだから、代わりにあげるよ。ちょっと待ってて」
森宮さんはソファの上の鞄をあさって「ほら、あった」と小さな包みを奥から出してきた。
「これ、いつの?」
受け取った包みはぐしゃぐしゃによれている。
「もらったのは10日ほど前かな。大丈夫大丈夫。餅ってそうそう腐らないだろう」
「餅だなんて、全然食べたいものと違うのに」
「そう言わずに。おいしいからさ。さ、どうぞ」
森宮さんがにこりと笑うのに、「じゃあ、いただきます」と私は包みを開くと、小さな餅を口に突っ込んだ。そのとたん、たっぷりついたきな粉が喉の奥へ広がった。
「そんな慌てて食べなくたって」
むせかえる私を、森宮さんは笑った。そのとたん、たっぷりついたきな粉が喉の奥へ広がった。
「そんな慌てて食べなくたって」
むせかえる私を、森宮さんは笑った。
「慌てたんじゃないよ。滑らかなプリンが通るはずだったのにって、食堂も気管も怒ってるんだよ」
「恐ろしい内蔵だな」
「体中がプリンを楽しみに待ってたの!」
私は呼吸を整えながらそう訴えた。信玄餅はおいしいけれど、プリンとはあまりに違う。

昨日まで春休みのせいで、少しぼやけた頭でダイニングへ向かうと、濃いだしと油のにおいがした。なんだっけ、こののにおい。と大きく息を吸い込んで思い出した。
ああ、そうだった。去年、2年生がスタートした日も朝から食べさせられたっけ。胃が目覚めてないのに困ったなと、げんなりしながら食卓に着くと、森宮さんがにこにこしながら大きなどんぶりを私の前に置いた。
「おはよう。優子ちゃん、今日から3年生が始まるね」
「そうだね。でも......」
私はどんぶりをのぞきこんで小さなため息をついた。やっぱりかつ丼だ。朝食をしっかりとる私でも、朝から揚げ物はきつい。
(中略)
2年生が始まる日の朝も、森宮さんは「母親は子どものスタートにかつを揚げるって、よく聞くもんな」とはりきってかつ丼を用意してくれた。森宮さんの「親とはこういうものだ」という考えは時々ずれていて、私は戸惑ってしまう。
「さ、熱いうちに食べて。早起きして作ったんだから」
「うん。そうだね、ありがとう。いただきます」
森宮さんが実の親だったら、「朝からかつ丼はきつい」とか、「始業式ぐらいでげんを担ぐなんておかしい」と主張できただろうか。森宮さんはあくびをしながら、自分にコーヒーを淹れている。早くから用意してくれたんだ。相手が誰であっても、わざわざ作ってくれたものを拒否するのは難しい。
「森宮さんは食べないの?」
私は胃を驚かさないようにおそるおそるとんかつをかじりながら、前に座る森宮さんに聞いた。森宮さんの前にはどんぶりではなく、小さな紙袋が置かれている。
「俺、朝からカレーでも餃子でもいけるんだけど、さすがに揚げ物はなあ。昨日、メロンパン買ったからそれ食べるよ。ここの店の、おいしいって評判らしいんだ」
森宮さんが袋から取り出したメロンパンからは、バターの香ばしいにおいが漂っている。私だって朝から揚げ物なんていらないし、評判のメロンパンが食べたい。この人は、共に食卓を囲む人が同じものを食べるということを知らないのだろうか。
「あ、このパン、噂どおりなかなかおいしい」
「よかったね」
私はメロンパンをほおばる森宮さんをうらめしく見ながら、かつ丼を口に入れた。胃も少しずつ活動し始めて、何とか受け入れてくれている。
「朝だからさっぱりしてるほうがいいと思ってヒレ肉にしたんだ。柔らかくするために肉を叩きまくったんだけど、どう?」
森宮さんは自信ありげな口調で言った。
「そうだね。おいしいよ」
食べ慣れてくると、だしの染みたご飯は優しい味で、それなりにおいしく思えてくる。朝からかつ丼はこりごりだけど、森宮さんの努力は感じられる味だ。それに、森宮さんはどんな失敗作でも私が作った料理は必ず完食してくれる。私だってちゃんと食べきらないと。学校に行くまであと20分。急がないと間に合わない。私は勢いをつけて、かつを口にほうり込んだ。
(中略)
「俺の家は勉強第一の厳格な家庭だったから、そういうのはなかったな。朝は味噌汁に納豆に魚。それが一番頭と体にいいって、毎日ほとんど同じメニューだった。楽しくない家だろ」
森宮さんは眉をひそめた。
泉ヶ原家で過ごしていた時は、私も和食の整った朝ごはんを食べていた。夕飯は大差ないけれど、朝はそれぞれの家庭で決まったパターンがある。田中優子の時はパンだけで済ませていたし、水戸優子の時は前の日の残り物とご飯だった。森宮さんの子ども時代の反動か、今の朝食はもっともバラエティに富んでいる。
「四角四面な人だから、朝からかつ丼なんて、俺の母親は考えもしなかっただろうな。大学生になって家を出て、俺、初めて朝食にコーンフレークを食べたもん」
「いいお母さんだと思うけどね。うわ、急がないとやばい」
もう7時30分を回っている。私は最後の力を振り絞って、かつ丼をかきこんだ。

瀬尾まいこ著『そして、バトンは渡された」