たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

『山女日記』(2) 山で沸かすコーヒー

山の中でコーヒー沸かすのいいな〜。
私は山コーヒーの経験はないが、味噌汁を沸かしていただいたことはある。
軽装備で行けるコースながら、地元のレスキュー隊で副業でガイドをしている方に案内をしていただいたとき。
登る前にスーパーに行ってお弁当を買い、味噌汁だけ沸かしてもらうというお互い楽チンなやり方でよかった。
ちなみに、山頂付近で酎ハイを開けている人たちがいて、本業レスキューの彼は「山でアルコールを飲むな!何かあったら誰が助けると思っているのか」とガチギレしていた。
道中、救急時のルート(超急勾配)などを聞いて驚愕したところだったので、背後で「そうだそうだ」と応援。
彼から教わった台風の役割などは忘れられない。

「お湯を沸かしてるんだけど、コーヒーを一緒に飲まない?」
お誘いに、ありがたく便乗させてもらうことにした。由美がお菓子を出す。
「こんなところで、こんなに素敵なものがいただけるなんて」
おばさんたちが嬉しそうな声を上げた。
「近所の人にもらったことがあるのに、姑が隠してしまって、食べられなかったのよ」
もなかを片手に、ポツリと恨み節をこぼすおばさんがいる。
(中略)
ありきたりなインスタントコーヒーを一口飲むと、疲れた胃にゆっくりとしみ込んでいった。コーヒーとはこんなにおいしいものだったのか。羊羹をかじる。からだが溶けてしまいそうだ。
ああ、贅沢だ。なんて素敵なゴールなのだろう。いや、まだこれから下山して、外輪山を越えて、ヒュッテに向かわなければならない。でも、ヒュッテには冷えたビールが持っている。

夕飯はカレーとハンバーグだった。いかにも山小屋といったメニューだと、当たり前のように食べてみたが、神崎さんは、口直しにコーヒーを飲みましょう、とわたしを外に促した。
ヒュッテの横には木製のテーブルとイスがいくつかランダムに設置されており、わたしたちは星空を一番よく見渡せる湿原側の一つについた。
(中略)
季節外れのみかんを食べながら、缶ビール片手に結婚について語っているOL二人組。
慣れた手つきでお茶を沸かして、持ち寄ったお菓子を広げているおばさん6人組。

神崎さんは尚もこちらを気遣いながら、アルミパックを開けた。香ばしいコーヒー豆の匂いがプンと広がる。取っ手の付いた布製フィルターに、目盛り付きのスプーンですり切り一杯入れ、沸騰した鍋の湯を少しずつ慎重に注いでいく。
全部が落ちきる前に、お湯を注ぎ足す......。そんな独り言をつぶやきながら。アルミカップにコーヒーがたまるにつれて香りもやわらかく広がっていき、コーヒー専門店の扉を開けたような気分になる。インスタントコーヒーを飲んでいる人たちは数人いるが、ドリップ式はわたしたちだけだ。
「お待たせしました。入りましたよ」
「どうも」
カップを受け取った。鼻先に近づけると、コーヒーの奥からサクランボのような香りが漂ってきた。
「先に飲んでください」
神崎さんは自分のを淹れながら言った。
「じゃあ、お先に」
味見をするように、口にふくませてからゆっくりと飲み込む。香りと同様、サクランボに似た酸味の強い味がする。飲めないことはないが、あまり好きな味ではない。
「薄かったですか?」不安そうに訊かれる。
「いえ、ちょうどいい濃さだと思います。ただ、酸味が強いのが少し苦手なので」
「ええっ」
神崎さんは漫画のような驚き方をし、ちくしょう、とこれまた大袈裟にテーブルに突っ伏した。
「最上級の赤ワインを彷彿させる、大人の女性に大人気の味じゃなかったのか......」
店員からそう勧められたのか、店のポップにそう書いてあったのか。言われてみれば、その表現は的を射ている。サクランボではなく赤ワインだ。
「気にしないでください。ワインと思えば切り替えできます。けっこう好きですから」
「そうですか!」
嘘泣きをしていた子どものように嬉しそうに顔を上げ、湯がすっかり落ちきったフィルターに、残りの湯を注ぎ足した。
「砂糖とミルクをもらっていいですか?」
「ええっ」
またもや大袈裟に驚かれ、わたしは彼のイメージしていることがだいたい予想できた。
「なければいいです。ブラックの方が飲み慣れているので」
「やっぱり。美津子さんはブラック派だと思ってました」
神崎さんはしたり顔で頷いた。
「でも、疲れてるときはからだが糖分を欲しますからね。ご心配なく。チョコレートを用意してありますよ」
神崎さんはコーヒーセットを淹れていた巾着袋から、縦長の箱を取り出した。ゴディバだ。妙高山の山頂で、OLとおばさんたちが高級和菓子を食べていたが、それにひけを取らない逸品だ。一般的に山で高級品を食べるのが流行っているのか、神崎さんのこだわりなのか。どちらにしろ、チョコレートがゴディバなら、コーヒーも相応のものなのだろう。
「このコーヒー、すごくいい豆なんじゃないですか? ブルーマウンテンとか」
「さすが、美津子さん。お目が高い。でも、ブルーマウンテンよりもさらにいい豆です。スペシャルティコーヒーって知ってますか?」
首を振ると、神崎さんはスペシャルティコーヒーについてレクチャーしてくれた。カップの中の風味が素晴らしい美味さであるコーヒーの生産を目指す理念に基づいて作られ、テイスティングにおいて一定水準以上の評価を得たコーヒーで、デパートなどで一般的に高値で扱われているコーヒーよりも高品質なものとして分類されるそうだ。
「ちなみにこれはニカラグア産で、カップ・オブ・エクセレンスという世界的な品評会で今年2位になった豆です」
「すごい。ネットで注文するんですか?」
「いや、シロウトがネットで手に入れるのは難しいみたいですよ。これは、行きつけのコーヒーショップのオーナーが、現地まで買い付けに行ってきたものなんです」
行きつけのコーヒーショップ。地味な神崎さんの憩いの場なのだろう。
「チョコレートもコーヒーに合わせて、いつも、こういうのを食べてるんですか?」
「まさか。チョコは大好物だけど、コンビニで売ってるようなのばかりですよ。特に好きなのはチョコボールのピーナッツの方で、なんと、僕、おもちゃのカンヅメを2個持っているんです」
わたしはキャラメルの方を子どもの頃よく食べていたが、エンゼルマークが出たことなど一度もない。
(中略)
「登山のときだけ、いつもと違う贅沢をしているんですか」
「まさか、そんな。コーヒーは山でもこだわってるけど、おやつはチョコボールが定番ですよ。今回は、美津子さんのお口に合いそうなのを選んでみたんです。僕が無理やり誘ったんだから、少しでも楽しんでもらわなきゃ、と思って」
チョコレートはゴディバじゃなきゃ嫌っ! という女だと思われているのだろうか。バブルが崩壊して、もう20年経つというのに。こんなところまで、わたしはいったい何をしに来たのだろう。それでも、6個入りのチョコレートがそれぞれどんな味なのか、見ただけで思い出すことができる。1つ選んでつまんだ。
「リキュールに漬けたチェリーのビターチョコと酸味の強い赤ワインは相性がいいから、このコーヒーにも合いそうね」
1粒300円を口の中に放り込んだ。バカじゃなかろうか。しかし、神崎さんはあきれた顔をしていない。
「いやあ、さすがだな。よかった、喜んでもらえて」
満足そうにそう言って、オレンジリキュールの入ったチョコレートを口に放り込んだ。そのままコーヒーを一口ふくんで、少し顔をしかめる。魚の骨でも詰まらせたように、チョコレートをあまり咀嚼しないまま、ごくりと飲み込んだ。
—やっぱり、チョコボールの方がうまいな。
その言葉を待ってみた。そうしたら、おもちゃのカンヅメのことを訊いてみようと思っていたのに......。

「朝とはいえ、やっぱり、火を通したての温かいものが食べたいなあ」
足首を回しながらそんなことを言い出した。ロールパン、ハム、チーズ、牛乳、りんごといった給食のようなメニューは、わたしの自宅での朝食とさほどかわらない。

「前回、木曽駒ケ岳に行ったときは僕が優勝したんです。といっても、負けたメンバーからビールをおごってもらっただけなんですが。でも、僕の作ったみそやきそばを定番メニューにしようと意見が出るほど、好評だったんです」
「みそやきそば?」
想像できない単語に、つい口を出してしまった。神崎さんは足を止めて振り返り、それがどういうものか説明してくれた。サッポロ一番みそラーメンを、インスタントやきそばの要領で作るらしい。それなら、普通のやきそばでいいのではないか。
「麺が水分を吸いきったところで、粉末スープを入れてかきまぜながら炒めるんです。やきそばよりもスープの味が濃いから、もやしとソーセージを山盛りに入れても、全体にしっかりと味が付くんですよ」
前言撤回、おいしそうだ。昼食は山頂で神崎さんが作ってくれることになっているが、これを準備してくれているのなら、かなり楽しみだ。
「あ、でも、美津子さんにはわからないか。インスタントラーメンなんて、食べませんよね」
「そんなことないですけど......。あまり好んで食べることはありませんね」
「だろうな。でも、ご心配なく。昼食はレトルトだけど、ネットで評判のハッシュド・ビーフを注文したので」
「楽しみです」
(中略)
インスタントラーメンは子どもの頃、土曜日の昼食の定番メニューだった。どこの家でもそうだったはずだ。決まった商品を箱買いしていて、うちは出前一丁、うちはサッポロ一番、などと言い合うことはしょっちゅうあった。

「しまった、チョコレートを残しておけばよかったな」
そうつぶやくのを聞きながら、出そうか出すまいかと考える。しかし、これからまだ頂上を目指さなければならないのだから、おいしく飲めた方がいい。2つのアルミカップにコーヒーが注がれたところで、わたしはリュックからチューブを取り出した。
「練乳ですか?」
手品でも見せられたかのように、神崎さんが言う。
「昨日、部屋で隣になったOLの二人組にもらったんです。『山女日記』っていう山ガールが集まるウェブサイトに、持っていくと便利なものとして、チューブ入りの練乳が書いてあったんですって。砂糖とミルクがこれ1本で代わりになるみたい」
「なるほどなあ。チューブだから手も汚れないし、ゴミも出ない。でも、美津子さんはブラックがお好きなんじゃないですか?」
「まあ、そうですけど。ベトナムではコーヒーに練乳を入れるのは日常的らしくて、最近では日本でもカフェのメニューにベトナムコーヒーがあるところが多いみたいですし、一度、試してみたいとは思ってたんです」
「ベトナムコーヒーか。おいしそうですね。入れてみましょう」
カップ・オブ・エクセレンスには申し訳ないが、練乳を二重に円を描くように入れた。軽く混ぜて、一口飲む。さすが、カップ・オブ・エクセレンス。味負けしていない。練乳を上手く包み込み、上質なリキュール入りチョコレートのような味に変化している。
「やや、これは大発見だ」
神崎さんもおいしそうに飲んでいる。

湊かなえ著『山女日記』より