たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

戦後のアメリカからの恵み『らんたん』(9)

「いちご水」は私も憧れたぞ。活版のくぼみが厳かな村岡訳で読んだので。何よりも、何杯もおかわりした欲張りのダイアナも悪い、とアンをかばったマリラ、子どもに対してすげえこと言うなーと印象に残った。

身体を拭き、ゆりの服に着替えてさっぱりすると、道はいろりの前に座って、手品師のように食料を取り出し始めた。どんなルートを使ったら入手できるのか、パイナップルの缶詰やブドウ糖、ウイスキーの小瓶が次々に現れたのだ。

「まあ、竜宮城のご馳走みたい!」

そこに入っていたのは「朝食」「昼食」「夕食」と記された三つの箱だった。その中には、クラクラするほど眩しい色合いの缶詰や瓶詰がぎっしりと詰まっていた。コンビーフにソーセージ、ピクルス、ビスケット。主食になるものばかりではなく、タバコにチューインガム、チョコレート・バー、葉巻まで入っている。なくても生きていける嗜好品———。涙が出そうになった。こんなささやかだからこそ力強い楽しさを感じることを、自分はもうずっと禁じて暮らしてきた。はやる気持ちを抑えて、チョコレート・バーをほんのひとかけ、口に含んでみる。表面を覆うチョコレートコーティングが舌の熱で溶けていくと、柔らかなヌガーが歯と歯の間をネバつかせた。ひと噛みすれば、香ばしいナッツが溢れ出す。約四年ぶりの甘さとコクが舌をしびれさせ、ゆっくりと身体中に染み渡って、指先までをもカッと燃やした。

「そりゃ、私たち戦争に負けるわけねえ」

道は一人、ため息をついた。すると、周囲にとろけるような香りが広がった。このままだと一人で平らげてしまいそうなので、道は慌てて箱を閉じ、栄養失調の友人たちにせっせと分けて回った。

隣室から運ばれてきたのは、瓶入りのコーラと輝く銀食器に盛り付けられた湯気を立てるハンバーガーだった。ニューヨーク時代に、何度か口にしたことのあるポピュラーな軽食だったが、今の道とゆりにとって、こんなに新鮮で心ときめく組み合わせはなかった。口の中に唾が湧き、何年かぶりの牛肉の香ばしいかおりにクラクラした。ふっくらした焦げ茶色のバンズと食べ応えのある挽き肉の塊を一度に頬張れば、肉汁が溢れ出す。それを甘苦くてコクのある炭酸水でしゅわしゅわと流し込む快感といったら!!

フェラーズはある日、皮を剥いだばかりの鴨をぶらさげて一色邸を訪ね、二人をびっくりさせた。

「きょう鴨場で、皇室とGHQの交流を図るために天皇がハンティングした鴨を使って鴨すきパーティーが開催されたんです。そのお裾分けです。銃で仕留めるのではなく、網を使うというのが平和的で良いイメージになりましたよ。乕児さんは以前から、宮内省とGHQは早く打ち解けるべきだと話していらっしゃったから、まずお見せしたくて」

その夜、道が一色邸に顔を出すと、フェラーズからの贈り物である缶詰やビスケット、クラッカーのディナーが待ち受けていた。

(中略)

「みんなと一緒にこの家で過ごせるんだもの。それだけで本当に幸せよ」

お祈りの後、道はそう言って一道を見回し、缶詰をどんどん開けていった。サーディンの油っぽいにおいが食卓に広がり、ハムやチーズを載せて頬張る塩味のクラッカーの香ばしさがたまらない。

お手伝いさんが運んできたのは、ローストビーフのサンドイッチと紅茶と果物だった。

フェラーズの自宅で食べたものとはまた違う、皇室ならではの、さりげない贅の尽くし方だと、道は密かに目を見張る。

「なんだか、エリザベスさんは皇室から、とても大切にされていらっしゃるんですね」

たまに帰ってきても、英文科の生徒たちとお弁当を食べながら、その時々で夢中になっていることを早口でまくしたてている。すぐに胃に収まるものがいいと、口にするものもサツマイモ、トウモロコシ、おむすびばかりだ。

ふと、足元に目を転じると、大きな紙袋が置かれている。なんだろうと中を覗いてみたら、乗客一人一人に配られている昼食だった。サンドイッチにクッキー、スティック状のセロリ、ゆで卵、それにかける塩胡椒まである。殻をむいた卵に味付けしてかぶりついていると、ぴったりした服装の若い女性がやってきて、すかさず飲み物を注いでくれた。いつの間にか、雲の上にいるという感覚が薄れていった。

隣に母が居たら、それほど面白がっただろう。娘時代に憧れた富士山、そして夢中で追ったキャサリン・スティンソンの鮮やかな機影。そのもっともっと上を道は飛んでいるのだった。

贅沢は慎んだが、こちらでは比較的安価なメロンだけは、ほぼ毎日好きなだけ食べた。

「こんなに面白い小説、私、読んだことはないわ」

道は「赤毛のアン」を読み終えるなり、花子を河合寮の応接室に招いて、賛辞の言葉を伝えた。昭和271952)年の出来事だった。

(中略)

二人のもとに運ばれてきたのは、寄宿生たちが「赤毛のアン」をイメージして自分たちの手で作った料理で、花子を大いに喜ばせた。赤く澄みきった「いちご水」を一口飲み、道は首を傾げた。続けてサンドイッチを齧ってみる。鶏肉のコンソメゼリー寄せもつついてみる。まずいわけではない。でも、なんだかおかしいなと思ったが、寄宿生たちがわくわくとした表情で味の感想を待っているので、絶対に顔に出すまいとした。小説のように、アルコールや痛み止めが混入されているわけではあるまい。実際、目の前の花子は美味しそうに食べている。

柚木麻子著『らんたん』より

らんたん

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