たべもののある風景

本の中で食事するひとびとのメモ帳2代目

紅茶『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(12)

朝吹登水子さんの登場。関係ないが私の英国の家族はみんなミルクのほうが多いミルクコーヒー派で、彼女みたいな優雅な紅茶の趣味をもたない。さらに日本にきてミルクティーに「ありえん」と引いていたのにはこっちが驚いた。

私はかやくごはんが好きだ。
人参としいたけをうすく切って、ごぼうはささがきにし、トリの肉と油揚をこまかくきざんで、全部おしょう油とわずかの砂糖で軽く煮ておき、お米がういてきたところに入れてたきこむ。
これに、こんにゃくを入れる人もあるようだが、私は油揚だけのたきこみごはんをつくったことも何度かある。
パリにいたころ、油揚のカンづめを送ってもらった。それは、すでに甘辛く味つけがされていて、一枚一枚中をひらいてごはんをつめれば、すぐにおいなりさんが出来るようになっている。大変便利なカンづめだった。
だた、おいなりさんをつくったら、ほんの少ししか出来ないから、日本のお客さまが来ると、私はその油揚をうすくきざんでごはんにたきこんで、どんぶりに七分目くらいにもり、上からもみのりをかけて出したら、ずいぶんたくさんの人に喜ばれた。もちろん、日本食がたべられないパリであればこそ喜ばれたのかもしれないが、私は今でもこの油揚ごはんは好きで、時々つくる。
油揚はなかなか有効につかえるものだ。西洋料理のベーコンのようなものだと私は思う。

オードブルというと、エビとかカニ、トリ、ソーセージの類がなくては、と心配するのはまちがいで、野菜だけオードブルなど、かえって珍しく、しゃれている。
日本ねぎを、やわらかくなるまでゆでて、酢油をかけたり、キャベツの細切りをよく塩でもんで、酢でのばしたマヨネーズであえたり、カリフラワーを塩ゆでにして、バタでいためたり、または、マヨネーズをのせてその上にパセリのみじん切りをちらしたり、盛りつけさえ工夫すれば、けっこうオードブルらしくみえる。
また、こんな時にたくさん卵があればしめたもので、日本的には、いり卵、卵焼きができるし、中華ふうにはカニたま、西洋ふうにはオムレツができる。
この場合、オムレツにはできるだけ具を多く入れ、大形のオムレツをつくって、これを大皿にのせて出し、各自好きなだけ取りわけるスタイルのほうがご馳走にみえる。
中に入れる具は、ハム、玉ねぎ、マッシュルーム、じゃがいも、ピーマン、トマト、ひき肉、にら、なんでもけっこう。そのほか卵では、夜食としてポーチドエッグもおいしい。

だいたいパリの人は、料理やブドー酒にはやかましいが、コーヒーや紅茶にはあまりうるさくない。また夕食後には、コーヒー紅茶をのまず、睡眠のために、ヴェルヴェンヌとか、カモミン、ティヨル、ジャスミンなどの葉でだした薬草的な茶をのむ人も多い。

ロンドンにゆくことになり、まずパリのイギリス大使館へヴィザをもらいに出かけた。ちょうど十時を過ぎた頃だったが、事務員たちのところへ給仕が紅茶をくばりだした。「お十時」というわけなのだろうか。
小さいクッキーが二つ三つのせられた皿もついていて、私のヴィザに書きこみをしていた事務員は、あたり前のようにそれを受けとると、書きこみの手をやすめ、紅茶に砂糖を入れ、一口ゆっくりすすると、また書きこみを始めた。へー、とそのときは驚いたが、ロンドンにいったら、十時、三時のお茶は、店員でも役人でもみんなのむので、また驚いた。
(中略)
まず色からしてくすんだ茶色ではなく、明るく透明な茶色で香りは高い。もちろん紅茶の葉自体、えらばれたおいしい葉でもあろうが、いれ方が違うのだ。そしてまたお茶といっしょにたべるビスケットとかクッキー、それにサンドイッチやトーストが実によくできている。私はロンドンに行ってはじめて登水子を理解した。朝吹登水子というのは、私の義兄の妹で、長いことパリに住み、フランソワーズ・サガンやシモーヌ・ド・ボーヴォワールの翻訳をしているが、私はパリにいたうちの半分以上、彼女とアパートを借りていっしょに住んでいた。三時をすぎると彼女は台所に入ってヤカンに湯をわかし始める。
「お茶にしない?」
私も自分の部屋からでてきてお茶の用意にとりかかる。
(中略)
一人でたべるときもテーブルの上にきれいなテーブルかけをかけて花の一輪もかざり、食器もならべて正式にたべる。紅茶が好きで一日六、七杯は飲んでいたが、そのいれ方がうるさかった。

なにしろ、三時のお茶をおいしく飲むために昼食はひかえ目にするぐらい、お茶の時間を大切にする彼女のことだったから、紅茶茶碗も厚手の焼きでは口あたりがまずくなるし、小さいとゆったりした気分になれないということで、大きめのうす焼きの茶碗で飲んでいたし、紅茶のセットも大きな銀盆にきれいなナフキンを敷いた、そろいの銀器だった。
一杯目を飲んでいるうちに湯がさめないようにと、手製で綿入れのポットカバーを作っていたし、紅茶の葉も、また紅茶にあうクッキーも、わざわざイギリスものを売っている店で買っていた。
私はそれほど紅茶党でもなかったが、しょうが入りのジンジャービスケットや、うすく来ってカリカリに焼いたトーストにバタをたっぷりぬって、熱い香りの高い紅茶でいただくと実においしいものだということを知った。
しかし彼女ほどのことはなかったから、私が紅茶をいれるときは、ポットや茶碗をあたためなかったりして手をぬくと、彼女はかならずそれを見つけるから恐れいった。
「私がいれるわよ」
というと、よく、
「ポットをあたためてから葉を入れてよ。お湯はグラグラになっていて?」
と疑いぶかくきかれたものだ。なんでも、おいしいものを食べたい、飲みたい場合は、それだけ手を加え、愛情をそそがなければ駄目なものだ。
私は色も悪く、香りもない紅茶をのむたびに、ゆったりとしたソファに腰かけて、紅茶茶碗を片手に、うっとりするような表情でお茶を楽しんでいた登水子の姿を思いだす。

石井好子著『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』より