『愉楽にて』でも高値こいた記述がされていた村上開新堂のクッキー。
私がおばあちゃんちで食べたときは、期待を上げ過ぎたこともあってか、「ブルボンと言われても気づかん...」と思った。というか、個人的にはモロゾフとかヨックモックのほうがおいしいと思う。
ハルコに「こいつらに食べさせるのはもったいない」と言われる子たちのひとり。
手に入りづらいクッキーも、この家ならふんだんにある。
「村上開新堂のクッキーが、こんなにあるうちって初めて見ました」
「そうでしょう」
ハルコは得意そうに頷いた。
「私がここのクッキーが大好きだと知っているから、おじさんたちがやたら送ってくれるのよ」
「でもすごいですね。ここのクッキーは少ししかつくらないので、手に入れるのが大変なんですよね。確か誰かに紹介してもらわなきゃ申し込めない。しかも3カ月待ちはふつうというクッキーです」
(中略)
一番町にある村上開新堂のクッキーは、文字や模様が全くないシンプルなピンクの缶に入っている。そしてぎっしりと隙間なく詰められたクッキーの美しさときたら、まるで工芸品を見ているようである。当然のことながら価格もとても高い。価値がわかっている人たちだけでとり交される贈答品である。「すみません。いづみさんから、今日はハルコさんのおごりだから、お酒入れて1人8千円以内の店って言われてたんですよ。でもここ、おやじさんが毎朝築地行って買ってくる魚ですから、とってもおいしいですよ。今でしたら、ノドグロの煮つけなんかおすすめです」
「じゃあ、それをいただこうかな。それから特製ポテトサラダっていうのもお願い。あっ、生ビールおかわり」
(中略)
やがて揚げた稚鮎やマグロのぶつ切りが運ばれてきた。マグロは中トロと赤身が半々ずつだ。
「この店はこんなざっくりした切り方ですけどね、いいマグロ屋から仕入れているから味は一流ですよ」
熊咲は、さあどうぞと言い、自分がまず稚鮎をぱくりと口に入れた。いかにも食べることが大好き、といった動作である。「時々コンビニ入って、スイーツ買っちゃうもんねえ……」
熊咲雄介は傍らにいる菊池いづみに同意を求める。彼女の方も、
「そうなんですよ。ちょっと目を離すとコンビニのシュークリームをむしゃむしゃやってるからびっくりしちゃいますよォ」「鶏道楽」というこの店は、そう値段も高くなく、新鮮な鶏の刺身が食べられる。その後は野菜がたっぷりの鍋が出て、スープで雑炊になるという段取りだ。
(中略)
「せっかくの鶏鍋です。おいしくいただきましょう」
熊咲は慣れた手つきで箸を持ち、2人にとり分け始めた。
「ハルコさん、この心臓のところはサッと煮て食べてください。よそではこれはなかなか味わえませんよ」
「あら …… コリコリしてておいしいわ」
「でしょう。いづみさんも、ほら、早く食べて」
やがて満腹の静けさがあたりをつつんだ。熊咲が指定してきたのは、老舗の中華料理店である。そろそろ上海蟹が入ってくる頃なので、皆でおいしいものを食べようという名目で呼んだというのだ。
(中略)
熊咲は姉の隣りに座り、さりげなく世話を焼いている。あらかじめ甲羅をはずして持ってくる蟹も、殻をそっと自分の皿に移した。
「翔一クン、もっと紹興酒飲みなさいよ。今夜はクマちゃんのおごりだから、二十年古酒ってやつを頼んだのよ」
(中略)
そこへ伊勢海老を軽く炒めたものが運ばれてきた。半身の上に、四角く切った身がのっている。
「あらー、せっかくの伊勢海老、こんな風に分解されちゃったのね」そうしている間に前菜が運ばれてきた。1つの皿に5つの小さな料理が盛られている。
「ご説明いたします……。右からトマトとキャビアのゼリー寄せ、その隣りが牛肉のカルパッチョ……」
(中略)
ハルコはパスタを巻きつける手を休めずにつぶやいた。そしてやや音をたてアラビアータのスパゲッティを吸い込む。
「純子さんも、話はそのくらいにして、伸びないうちに食べなさいよ」「ふつう2食おごるって言ったら、夕食2回ですけど、まあ、いいか」
ということで、2人は2泊3日のソウル旅行にやってきたのである。昨夜は豚の焼肉料理を食べた。こちらの方が牛よりも食べやすい。済州島の黒豚は、もっちりしていて甘い脂身だ。そして今日のランチは、大人気の韓定食を食べに行くことになっているのだ。
(中略)
「こんな円安になっても、韓国は食べ物安いもの。昨日の焼肉屋もビール2本飲んで2人で7千円しなかったものねえ」
「そうなんですよ。ソウルの食事の安さは感涙もんです。しかもパンチャンがタダ」
「パンチャンって何よ……」
「やだー、ハルコさん、おいしい、おいしいって言ってたじゃないですか。キムチもやし、カニとか小皿でいくつも出てくるでしょ。韓国ではあれはみんなタダで、いくらでもおかわり自由なんです」
「そうだったわよね。そこへいくと、日本の韓国料理屋は相当ぼってるわよね。キムチがひと皿800円もするんだから」
(中略)
そうしている間にも、皿が次々と運ばれてきた。テーブルに並べきれないほどで、何種類ものキムチはもちろん、スープは3種類、アミ、カニの炒めもの、焼きたての鯖、ひき肉のチャプチェ、ノビルと味噌、海苔、となんと20種になる。
(中略)
そのあと3人はひたすら食べ続けた。20皿の圧迫感はすごいものがあり、とにかく空にしなければと、せっせと箸を動かした。やっとひと息つけたのは、おおかた片づいて、デザートのスイカが運ばれた頃だ。
(中略)
「あっ、スイカもっといるかって」
「私はもらうわ。韓国のスイカ、あっさりしておいしいのよね」
ヒョンヒはそのことをおばさんに伝えたらしい。今度は大ぶりのものが3切れ皿に盛られてきた。「さすがにここのお茶代ぐらい、ハルコさん払ってくれますよね。私よりずっと年上なんだし」
つい嫌味を言ってしまった。
「ヤな言い方するわね。もちろんそのつもりだったわよ」
「だったら、ケーキ頼んでもいいですか。ここのケーキは、このあいだのスイーツグランプリで準優勝したんですよ。今の季節、モンブランは絶品ですよ。本物の和栗を使っているところは都内でもめったにありませんよ。それから生クリームのおいしさも、私は東京でベスト3に入ると思いますよ」
「ふうーん、やっぱりいづみさんは食べ物の専門家よね。それ聞いてたら、私も食べたくなっちゃったわ」
「じゃあ、2個注文しますね」
「2個は多いわよ。1個頼んで半分ずつにしましょうよ。私はダイエットしてるし、ちょっと味見るだけでいいんだもの。フォーク2本もらえばいいでしょう」
「フォーク2本もらって半分こずつなんて、おのぼりのおばさんみたいで私なんか、ちょっと……」
「いいじゃないの、半分ずつで」
「それに私、ケーキの味を確かめるためにも、ちゃんと1個食べたいんですよ」
(中略)
やがて白い皿に盛られた、小ぶりのモンブランが運ばれてきた。いづみはスマホで撮影した後、フォークで切り口をつくりもう一度撮った。
(中略)
ハルコはモンブランの最後のひときれを口に入れる。
「やっぱり季節の和栗を使ってるから、上品でおいしいわね」
(中略)
やがて新しいお茶が運ばれてきた。しかも小さなタルトが幾つか添えられている。
「どうかお味見をしてください。うちのパティシエの新作です」
「ここのタルトも最近評判ですよね。カフェ・ブリュー、この頃ケーキがすごいって、ネットの書き込みいっぱいですよ」「そんなこと言うと、蟹を出さないわよ」
「まあ、まあ、冗談ですから軽く流してくださいよ」
富山からズワイ蟹の到来ものがあった。とても1人では食べきれないので、夕飯に来いとハルコからの誘いだったのだ。
やがてハルコは食器を並べ始める。お茶をやっているだけあってどれも趣味がよい。見事なズワイ蟹2ハイは、備前の大きな皿に盛られた。
2人はしばらく無言となって、蟹をせせり始める。
「なんておいしい蟹なんでしょう」
ため息をついた。フードライターのいづみは大層舌が肥えている。その彼女が食しても、甘みといい、みずみずしさといい絶品の蟹であった。
(中略)
どこか釈然としないが、ズワイ蟹のおいしさは抜群で、これはいづみが持参した幻の銘酒「亀の翁」を合い間にぐびっと飲むともううっとりした気分になってくる。
(中略)
ハルコは不貞腐れて、蟹の脚を1本手にとった。ポキッと折って中の肉をすする。「気取ってない焼き菓子なんかは、このテーブルに置くと映えるって、雑誌の人に言われるもんですから。今日はね、いづみさんがいらっしゃるっていうんで、久しぶりにチェリーパイを焼いてみたの」
「やった! 妙先生のチェリーパイは絶品ですからね」
やがてテーブルが整えられ、運ばれてきた紅茶とパイを前に、妙はぽつりぽつりと語り出す。
(中略)
帰り道、ハルコといづみの手には、小さな袋があった。それは残ったチェリーパイを土産に渡してくれたものだ。警官たちが苦笑して帰るのと入れ違いに、熊咲がやってきた。ケーキの箱を手にしている。
「コンビニで買ってきました。こんな時は、甘いものを食べるのがいちばんですからね」
(中略)
「じゃあ、私、紅茶でも淹れますよ。ハルコさん、紅茶の缶どこにありますか」
「その棚の2番め見てよ。お歳暮でもらったもんがあるはずだから」
ハルコは放心したように動かない。着替えようともしない。
いづみは紅茶を入れ、皿にケーキを持った。ぱさついたモンブランケーキであった。しかしふた口三口食べるうちに、ハルコに活力が戻ってきた。そして約束の日、2人で食事をしました。料理は確かにおいしかったです。客に出す直前に出汁をひくというのは驚きでした。
「どんな高級な料亭でも、出汁は朝ひくんだけど、ここはすごいね。といっても、こんな話は女将の受け売りだけどさ」「だからこうして、ハルコさんの大好きな河豚をご馳走してるじゃないですか」
「ま、これは河豚は河豚でも中どころの河豚よね。私は冬になるとさ、一流どこのピンの河豚をご馳走になる女なのよ。まあ、せっかくだから、しっかりいただくけど」
(中略)
「(中略)あ、私、河豚の白子追加してもいいわよね。やっぱりこれを食べなきゃね」
「はい、はい、何でもどうぞ」
(中略)
ハルコはぐいっと、ぬるくなったヒレ酒を飲みほした。いづみのおごりだとわかった時から、もう3杯も注文している。いづみはハルコから頼まれていたシューマイを手にしていた。初台の小さな店で、老夫婦が手づくりするこのシューマイは抜群のおしいさで、開店するやいなや行列が出来る。午前中であっという間に売り切れて、今や「幻のシューマイ」と呼ばれているほどだ。
フードライターのいづみは、この老夫婦と仲よくなり、時々特別にこのシューマイを分けてもらうことがある。一度ハルコのところへ持っていったところ、
「こんなおいしいシューマイは食べたことがない」
と大絶賛された。
「私みたいにしょっちゅう中国飯店や聘珍樓に行く人間が言うんだから間違いないわよ。また手に入ったら持ってきて頂戴」
と命じられている。
今日も開店前に行き、ほかほかのシューマイを手に入れた。
(中略)
3人でシューマイを食べている。ハルコのストレッチが終わるのを待って、いづみは茶を淹れた。「この頃、河豚刺厚いのが流行ってるけど、私はこんな風に、お皿が透けるぐらいの薄さの方が好きよ。まあ、なんておいしいのかしらね。河豚刺って、喉が清らかになるみたい」
(中略)
そこでハルコは、あらあら乾いちゃうわ、と残った皿に箸を伸ばす。ハルコはひと切れひと切れ、ゆっくりと食したりはしない。箸を刺身の下に入れ、ぐるっとまわす。
いづみはこれを「メリーゴーランド喰い」と名づけ、警戒のため、自分たちの分の境を示すワケギを1本印に置いている。しかしその“国境”はやすやすと突破されようとしていた。女将の話で沈黙している熊咲をよそに、ハルコは自分の取り鉢に小さな河豚刺の山をつくる。
「あー、やっぱりここのトラフグは最高よね」林真理子著『最高のオバハン 中島ハルコはまだ懲りてない !』より